住居の格差はあったが「一島一家」と言われるほどアットホーム
身分によって住居に格差があったのは、戦前の「社員は一切会社側の管理の下にあって、部屋の決定も鉱夫たちには自由に選択できず、労務係が平常の仕事の成績に従ってよい部屋をあたえる」という三菱独自の規則があったからであった。家族の人数によって妥当な部屋を配分されるわけではなく、6畳1間に9人で暮らしていた家族もいたという。
1947(昭和22)年に「社宅入舎割当点数制度(住み替えの点数制度)」が実施され、勤務成績や勤続年数、家族構成に応じて希望の部屋が選べるようになった。鉱員の中でも長く勤めている者はグレードの高い部屋に移ることができたという。そのため鉱員はより太陽の当たる部屋を求めて引っ越し、同じ部屋に住み続けることはなかった。基本的には、職員と鉱員の住宅は明確に区別されていたが、職員社宅が足りない頃には、職員が鉱員社宅に住むこともあった。
なお、狭い島内であり同じ職場である者も多く、さらに共同浴場などを利用していたからか住民同士の絆は深かった。それは「一島一家」と言われるほどアットホームだったという。外出や就寝する時でも、よほどのことがない限り鍵をかけなかったという住民もいたが、それでも泥棒に入られたという話はほとんどなかったそうだ。
国内有数の家電の充実ぶりで水道光熱費はわずか10円
島で暮らす住民の水道光熱費は1959(昭和34)年で、すべてあわせて10円だった。家賃は無料で、昭和30年代後半の6畳1間、共同トイレ風呂なしのアパートの家賃が、国内平均で3000円程度だったことと比べると、その待遇の良さがよくわかる。島内のアパートは部屋ごとに備え付けのかまどがあり、台所での煮炊きは薪を使っていたが、やがてプロパンガスや電気が使われるようになった。プロパンガスは2個まで無料配布され、2個以上は有料であったが、2個以上必要なことはほとんどなかったという。
また、島内ではいち早く電化が進み、充実した電化生活を送っていた。当時庶民の憧れの的で「三種の神器」といわれていた白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫の全国普及率はそれぞれ7.8%、20.2%、2.8%だったのに対し、島内での保有率はほぼ100%というから生活の豊かさがうかがえる。しかし、海底水道の完成と、各戸に洗濯機が普及していったことで、各階にあった共同の洗濯機は物置と化してしまった。
また、1972(昭和47)年当時、新卒の月給は5〜6万円だったのに対し、軍艦島では月約20万円受け取っており、極めて恵まれた生活をしていたと想像ができる。