読書の効能とは何か。『書物を楽しむ あえて今、紙の本を読む理由』(朝日新書)を出した作家の林望さんは「ただただ愉快痛快なだけの本も、それまた読書の大切な役割だ」という――。

読書には2つの側面がある

まず私の読書史のなかで、最大の作家といったら、前述の如く、あのハードボイルド小説の大藪春彦です。

大藪作品はもう全部読みました。別にそこから人生を学ぶとか、深い感銘を受けるとかいうわけではなく、本当に純粋な意味でのエンターテインメントとしての読書でした。

そもそも読書には、勉強あるいは研究という側面と、それから娯楽、エンターテインメントという側面と、二つの在り方があると思います。

もっとも、非常に面白い作品を研究したりすれば、勉強がすなわちエンターテインメントともなり、そうではなく、読んで「ああ面白かった!」で終わる、まったくのエンターテインメントというものもある。

人によっては、学術書・研究書のような本を、娯楽的に面白く読む人もあるかもしれませんが、私はそのような経験はしたことがありません。読書ということを、「人生を豊かにするための一つの楽しみ」だと定義をすると、研究書のようなものは、ふつうその中には入らない。少なくとも学問を専門としない一般の方にとっては学術書のようなものは、たぶんほとんど無意味な本でしょう。

大藪作品の圧倒的なカタルシス

そうしたものはまず一旦除外して、いわゆる大衆小説となると、これは純粋に読むことが面白くて愉しくて、どうかすると寝食を忘れて読みふけってしまう、そんなこともよくあります。これが醇乎じゅんこたる「読書の楽しみ」かもしれません。

特に、エンターテインメントの中でも大藪春彦が面白かったのは、戦後のまだ日本が低調であった時代に、快刀乱麻を断つの筆勢というか、文字の劇画というか、活劇映画を活字で見るとでもいうような、そして最後には必ず主人公が暗黒世界の敵を倒す、という胸のすくような感じ……つまり圧倒的なカタルシスがそこに用意されていたからです。

昭和39年に刊行された『蘇える金狼』では、まだ今とは全く社会が違って、日本の社会は全体に貧しく低調で、庶民はそれこそ汲々きゅうきゅうとした生活を送っている、そんな時代にイタリアのドゥカティというオートバイにまたがって、まさに神出鬼没、自由自在な活躍を見せて、最後のカタルシスに私どもを連れていってくれる、その読書的快感は当時並びないものでした。

颯爽とポルシェを運転したり、マシンガンをぶっ放し、まわりの女性を魅了してやまない圧倒的美男と叡知、そこへ超人的な肉体をそなえて、まあ男の私にとっては、せめて夢にでも見たいという理想的なナイスガイなのでありました。

要するに日本版のジェームズ・ボンドのような話です。

暗がりで本を読む男性
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