戦後の出版ブームでは女性の書き手も多く活躍した。文筆家の平山亜佐子さんは「詩人の堤玲子は岡山県で生まれ、貧しい大家族で育った壮絶な生い立ちや男性遍歴を赤裸々に本に書いた」という――。

※一部、書籍の引用部分に差別的な表現があります。発行当時のまま掲載しました。

写真左=堤玲子、写真右=堤玲子著『わが闘争』三一書房
写真提供=三一書房
写真左=堤玲子、写真右=堤玲子著『わが闘争』三一書房

昭和5年、岡山のスラムに生まれる

第2回:堤玲子〔1930(昭和5)年3月29日~不明〕

堤玲子の本名は浅野孝子、1930(昭和5)年3月29日に岡山県岡山市で生まれた。玲子によればそこは「スラム」で貧困や差別が渦巻く場所だったという。父の鉄雄は元陸軍上等兵で戦後は百姓をしており、母は元女中で、結婚後は行商などをしていた。

玲子は7人きょうだいの2番目だったが、4歳まで口をきかず知的発達に遅れがあると思われていた。そんな玲子をかわいがってくれたのは祖母のイシと父の姉、玲子にとっては伯母の秋野である。イシは体重75kgと大柄で、やくざに脅されてもドスを畳に突き刺すような度胸の据わった人で、常々「玲子よ。負けるな」「お前が阿保であるものか。賢い子ォだ」と励ました。しかし、イシは池に誤って落ち、玲子が物心がつく前に亡くなった。

伯母の秋野は美人だが知的障害があり、7回結婚して7回離縁された後、子どもたちの子守をしていた。玲子のことは一番のお気に入りで、優しい声で卑猥ひわいな歌を歌い、寝ている玲子の周りを着物をまくって下着もつけずにカンカン踊りをしたりしていた。

岡山市の岡山城近辺
写真=iStock.com/thanyarat07
岡山市の岡山城近辺 ※写真はイメージです

貧しい大家族でワイルドに育つ

祖父の又七は毎日リヤカーをひいて野菜の行商に出ていた。帰ると子どもたちは片手を出して一銭をたかった。又七はにこにこと渡してくれたが、それは彼なりの罪滅ぼしだった。というのも、たった一度娼婦を買った際に梅毒をもらい、以来、堤家が「悪遺伝」に汚染されたと信じられていたからだ。

又七は常々「この世はなあ、地獄よ。地獄とは恐ろしいもんじゃ。じいが地獄にしてもうたんじゃ」と語っていた。そんな又七が中風で床に伏していたときのこと。子どもたちは力を合わせて又七の身体を起こそうと思い、手足をそれぞれが抱え、無理に立たせた。やっと立ち上がったその姿に思わず拍手が起こったが、その瞬間支えを失った又七はそのまま前に倒れ込み、以後容体は悪化してついには亡くなった。

玲子は成長とともにガキ大将になった。戦争ごっこでは伯母の秋野の背中に跨り、「秋野、走れ。お馬、走れ」と右に左に乗り回した。家族のなかで秋野を好きなのは秋野の弟である玲子の父と玲子のみで、なかでも母はとくに嫌っていた。なぜなら、嫁いだ日の翌朝、たまたま小部屋を開けたら秋野がぼろ布とともに隠されているのを見つけたからである。「畜生! あざむいたな」と思ったが後の祭りだった。