女学校を出たが、まともな職がない
友人、知人の紹介で就職しようとしたがどれも失敗に終わった。いっそ顔を火傷したら働けとも言われず、思う存分文学に勤しめるのではと油を煮立たせていたら、天ぷらを盗み食いしようとしたと勘違いした母に殴られた。本屋で働こうとしても断られ、そのことで母に馬鹿にされた。玲子は初めて母につかみかかり「まともな家に生んで、文句をいいやがれ」という言葉が喉元まで出たが、それだけは言えなかった。すでに体力では明らかに玲子に分があった。以来、両親はあまり殴らなくなった。
1946(昭和21)年6月、職業安定所で紹介された自動車組合の事務員になった。理事長、会計、玲子の3人だけの小さな会社で、自動車用の鉄板やカーバイトを工場に配給するのが業務だった。理事長は戦時中は思想犯を取り締まっていた特高あがりとかで、陰湿な嫌がらせをした。5年間勤めたが、結局パワハラで辞めた。
1951(昭和26)年、女学校時代の友人の母の紹介で面接に行った鉄道弘済会に採用され、庭瀬駅の売店の売り子となった。以降、本が売れるまでの17年間勤めることとなる。またこの年、徳島の「近代詩人」の同人となり、自殺の詩などを投稿し始めた。編集長は「諸君。脱帽せよ。天才が現れた」と書いた。
自分勝手な文学青年に弄ばれる
庭瀬駅の駅員の吉田は両親とも大学出のインテリ、文学好きの美青年で、玲子はすっかり惚れ込んだ。ある夜、二人で玲子の家の近くの田んぼを通りかかったとき突然押し倒された。声をあげようと思ったが家が近かったためできなかった。玲子19歳、それが初体験だった。後から聞けば、女性の家の近所の草むらで強姦するのが吉田のやり方だった。翌日、吉田は「処女をやったら俺は捨てる主義だ」と言い、美しい女性を指して「俺は明日あいつと見合いする」と言った。ショックを受ける玲子に、文学をやっているくせに普通の女と一緒だな、と追い打ちをかけた。
またあるとき、当時玲子と親しかった加代という少女の家に、玲子、吉田、そしてもう一人の男の四人で集まっていた。すると吉田が、自分は加代と関係を持つから、玲子はもう一人の男と関係を持ち、その後で交代しようと言い出した。吉田と加代が絡み合う様子を目の当たりにした玲子は、思わず泣き出し、そのまま家へ帰った。この頃のことを玲子は後に「生涯を通じての生き地獄の日々」と書いた。