幽斎の子孫・細川宗孝が江戸城で殺され、伊達家が窮地を救う

田辺城の攻め手の一人・谷衛友たにもりともは藤孝(幽斎)の弟子で、攻撃するふりをして空砲を撃っていたという。幕末にも似たような話があった。

明治維新の20年前、1747年のことだ。江戸城のかわや(トイレ)近くで、肥後熊本藩主・細川宗孝(幽斎の子孫)が刺殺された。犯人の板倉勝該いたくらかつかねは一族の板倉勝清を刺殺するつもりだったのだが、衣服に付いている家紋が似ていたため、誤って宗孝を刺殺してしまったのだという(幽斎が他の家紋を選んでいたらなぁ)。

宗孝はほぼ即死だったらしい。武家社会において殿中で刺殺されるとは不覚悟の極み、最悪は御家お取り潰しといわれても仕方がない。たまたま近くに居た伊達宗村が機転を利かせ、いい働きをした。「細川殿にはまだ息がある。早く屋敷に運んで手当てせよ」と叫んだのだ。宗孝の遺体は藩邸に運ばれ、「治療の甲斐なく死去」ということにした。併せて、子がなかった宗孝は、「弟を養子にしていた」と報告した。そのおかげで細川家は無事存続を許された(この後、細川家は家紋を図表2のようにアレンジした)。

【図表2】細川家の家紋「九曜紋」(中央)
筆者作成

細川家はこの件で仙台藩伊達家に大きな恩義を感じた。戊辰戦争で細川家は官軍として、仙台藩を攻める一角を担ったが、大砲は空砲を撃っていたという。歴史って、めぐりめぐっていくものなのだ。

菊地 浩之(きくち・ひろゆき)
経営史学者・系図研究者

1963年北海道生まれ。國學院大學経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005~06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、國學院大學博士(経済学)号を取得。著書に『企業集団の形成と解体』(日本経済評論社)、『日本の地方財閥30家』(平凡社新書)、『最新版 日本の15大財閥』『織田家臣団の系図』『豊臣家臣団の系図』『徳川家臣団の系図』(角川新書)、『三菱グループの研究』(洋泉社歴史新書)など多数。