関ヶ原合戦前夜、三成の大軍に囲まれた幽斎を救ったのは…
秀吉の時代になると、藤孝(幽斎)はいわば「ご隠居さん」となり、嫡男の細川忠興(当時の名は長岡忠興)が秀吉に仕えた。
忠興は幽斎と違い、戦場では勇猛果敢で、家老たちが押さえるのを無視して一番槍を挙げるくらいだった。信長の晩年、すでに忠興が細川軍を指揮し、幽斎は留守番部隊だったようだ。忠興は「利休の七哲」の一人に加えられるほどの文人大名であるが、猛将で武断派の急先鋒。1599年に石田三成を襲撃した七将の一人でもある。
関ヶ原の合戦で、家康と毛利輝元・石田三成に分かれると、家康側につくのは自明の理である。三成は家康に従った諸将の妻子を人質にとろうと考え、忠興夫人・玉(細川ガラシャ)に兵を差し向けて連れ出そうとしたが、玉はこれを拒否して慶長5年(1600)7月17日に自刃した(玉はキリシタンなので、自害は許されず、実際は家臣・小笠原少斎に自分を殺害するように命じた)。
忠興は嫉妬深く、玉に見とれて木から落ちた植木職人を手討ちにするほどであったから、人質にされるくらいなら、玉に自刃するよう命じていたという。結局、玉の自刃により三成は人質作戦を断念せざるを得なくなった。
かくして、慶長5年(1600)9月15日、関ヶ原の合戦が行われると、細川軍は奮戦して、徳川方の勝利に貢献した。
「古今和歌集」の権威として天皇に命を救われ、東軍勝利に貢献
一方、留守番部隊だった細川幽斎は、500に満たない兵で丹波田辺城に籠城。毛利・石田軍は1万5000ともいわれる大軍を送って、7月19日から攻城戦を開始した。ただ、攻め手の中には幽斎の歌道の弟子もおり、消極的な姿勢に終始した。
細川幽斎は古今伝授の伝承者である。古今伝授とは、勅撰和歌集である『古今和歌集』の解釈を秘伝として伝えるものである。朝廷は幽斎がまだ古今伝授を次世代に伝えていなかったため、幽斎の討ち死にによって伝承が途絶えるのを危惧した。幽斎の弟子・八条宮智仁親王、その兄・後陽成天皇は、使者を遣わして田辺城を開城するように説得したが、幽斎は拒否。
ついに天皇が勅使を使わして講和を勧め、9月13日に幽斎は開城した。当然、攻め手は関ヶ原の合戦に間に合わず、1万5000の兵を釘付けにしたことは、間接的に徳川方の勝利に貢献した。しかし、猛将・細川忠興は、討ち死にしなかった父の不甲斐なさを嘆き、しばらく父子間が不和になったという。
徳川の世となり、幽斎は長岡から細川へ復姓。77歳まで長生きし、慶長15年(1610)に、京都の邸宅で生涯を終えた。