家康には17人以上の側室がいて、生涯で11男5女をもうけた
江戸幕府を開いた徳川家康(1542~1616)には2人の正室、少なくとも17人の側室がおり、11男5女をもうけた。
家康は今川家の人質時代に築山殿と結婚。築山殿は、大河ドラマ『どうする家康』でも描かれたように、今川家重臣の娘で、今川義元の姪といわれていたが、実際は違うらしい。
弘治3(1557)年頃、つまり家康が15歳頃に結婚、永禄2(1559)年3月に17歳で長男・岡崎信康、翌永禄3年6月に18歳で長女・亀姫が生まれた(年齢は当該年の満年齢)。
ちょうど亀姫が生まれる2週間前の永禄3年5月、桶狭間の合戦が起こり、家康は岡崎に復帰。今川家から離反して、三河統一を推し進めた。これ以降、築山殿に子がないことから、築山殿は悪女で、夫婦仲が悪かったといわれている。
正妻の築山殿とは夫婦仲が悪く、側室をもうけるが……
家康は永禄5(1562)年2月に今川勢の拠点・西郡上之郷城を攻め落とし、城将・鵜殿長照を敗死させた。
その3年後の永禄8(1565)年、家康は23歳で次女・督姫をもうけたが、その母・西郡局は長照の姪である。鵜殿氏は皆殺しにされたわけではなく、残った一族が家康に仕えたので、人質として預けられていたのをお手つきしちゃったのだろう。
永禄11(1568)年、家康は隣国・遠江に侵攻。元亀元(1570)年に岡崎城を信康11歳に譲って、自らは浜松城に移った。天正2(1574)年2月、久しぶりに32歳で次男・結城秀康が生まれる。
母はお万の方27歳。「三河池鯉附の住人永井(氷見の誤りか)志摩守吉英の女であるといい、或いは尾州熱田社の禰宜 (神職のひとつ)、村田意竹の女であるともいい、その生い立ちは明らかでないが、微賤の出と思われる」(『家康の族葉』)。
この前後に家康の子女を生んだ側室はいずれも三河の国衆(国人領主)の娘(もしくは孫)で、お万の方はかなり身分が低い。次男・秀康、六男・忠輝(後述)は家康に疎まれていたが、ともに母の身分が低いためだと考えられる。お万の方は、正室の築山殿に側室として認知されていなかったので、浜松城内で出産することができず、城下の家臣宅で秀康を生んだといわれる。