二代将軍・秀忠を産んだのは今川氏家臣の姪である西郷局

天正4(1576)年3月、信康に長女が生まれ、家康は34歳でおじいちゃんになる。

天正7(1579)年4月、家康37歳で三男・徳川秀忠が生まれた。母は西郷局17歳。家康の20歳年下で、三河の有力な国衆・西郷家の出身。この年の8月、家康は築山殿を家臣に殺害させ、さらに翌9月には信康を自害に追い込んだ。

天正8(1580)年9月に四男・松平忠吉ただよしが生まれる。母は西郷局。翌天正9年に東条松平家の養子となる。

同天正8年10月に三女・振姫が生まれる。母はお竹の方。年齢不明。甲斐武田家臣・市川昌永まさながの娘、または市川昌忠まさただの妹といわれる。そもそも武田家滅亡が天正10年なのに、それ以前に武田家臣の側室がいるのが不可思議なのだが、長篠の合戦で討ち死にした部将の遺族が身を寄せてきたのかも知れない。

徳川家康肖像画
徳川家康肖像画〈伝 狩野探幽筆〉(画像=大阪城天守閣蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons

秀吉の異父妹と再婚、その結婚期間は子作りを避けた?

天正11(1583)年9月に41歳で五男・武田信吉のぶよしが生まれる。母は下山殿。甲斐武田家臣・秋山虎康とらやすの娘だと考えられるが、穴山あなやま梅雪ばいせつの養女だったとも、武田信玄の娘だったとの説もある。『徳川妻妾記』では「梅雪の末弟である穴山彦八郎信邦の妻であった」が、離別させられ、家康への人身御供ひとみごくうにされたという。そこら辺が正しいのかもしれない。家康は信玄を深く崇拝していたので、武田家にゆかりの深い女性を側室に置き、その子どもに武田姓を名乗らせたかったのだろう。

翌天正12年に家康は小牧・長久手の合戦で羽柴秀吉と戦い、講和の後、次男・秀康は秀吉の猶子(財産相続を伴わない養子)となり、天正14(1586)年5月に家康は秀吉の異父妹・あさひと再婚。家康は44歳、あさひは43歳だった。天正16(1588)年6月に家康が上洛する際にあさひをともない、以後、秀吉の築いた聚楽第じゅらくていで逗留。あさひは天正18(1590)年1月に死去した。