婚姻関係にあった明智光秀が信長を討つという大ピンチ

しかし、戦国武将としては評価が低い。慎重で戦場での決断力が乏しかったらしい。藤孝(幽斎)は明智光秀の与力につけられた(宣教師ルイス・フロイスが著した『日本史』、興福寺僧侶が記録した『多聞院日記』には、光秀はもともと細川藤孝に仕えていたという記述がある。ともに信憑性の高い史料なので信用すべきと思うのだが、一般的には無視されている)。さらに、信長の命で、藤孝の長男・忠興ただおき(1563~1646)と光秀の三女のたま(のちのガラシャ)が結婚し、血縁を通じて光秀との関係を強くした。

だから、本能寺の変が起きると、主君・信長を討った光秀は当然、藤孝・忠興父子の加勢を期待した。

ところが、藤孝は剃髪して幽斎玄旨ゆうさいげんしと名乗り、忠興とともに隠棲。さらに光秀の娘である嫁の玉を丹後国味土野みどの(京都府竹野郡弥栄町)に幽閉してしまう。親族の有力大名である藤孝・忠興父子の離反は、光秀にとって大きな打撃となった。山崎の合戦で敗走した光秀が討たれると、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)は藤孝・忠興父子が光秀にくみしなかったことを高く評価した。

【図表1】細川家家系図
筆者作成