※本稿は、増田賢作著、小和田哲男監修『リーダーは日本史に学べ 武将に学ぶマネジメントの本質34』(ダイヤモンド社)の一部を再編集したものです。
ドイツの名参謀が絶賛した布陣なのに敗北した西軍
石田三成(1560~1600年)は、豊臣秀吉の側近として天下統一事業を支え、大名となった人物です。秀吉の晩年には、豊臣政権の実務を引き受ける5奉行の1人として中枢を担います。
豊臣政権で三成が果たした役割は大きなものがありました。現代風にいうと、優秀な官僚だったのです。
1598年に秀吉が亡くなると、徳川家康が豊臣家の天下を奪う動きを始めます。
こうした動きに対し、豊臣政権を存続させようとする三成が、家康打倒を目指して挙兵。
西軍(三成側)の総大将として、中国地方の大大名・毛利輝元(1553〜1625年)を担ぎ上げます。そのほか、島津家(鹿児島)・宇喜多家(岡山)・長宗我部(高知)など、西国の有力大名も味方にします。
西国の有力大名を率いた三成は、関ヶ原で家康側の東軍を囲むような布陣となって決戦に臨みます。
後年、明治時代になって陸軍設立時に招へいされ、日本陸軍の近代化を教導したドイツ軍人、クレメンス・メッケル(1842〜1906年)は、関ヶ原の戦いの布陣を見て、「これは西軍が勝ったのだろう」と絶賛したほど、西軍のほうが優勢だったのです。
実際には西軍が負けたわけですが、西軍の島津家や、家康の本陣の真後ろにいた毛利家はまったく動きませんでした。
そのうえ、両軍どちらにつくか明確でなかった小早川家は東軍に味方し、また西軍として戦っていた脇坂安治(1554〜1626年)などが東軍に寝返った結果、西軍は敗北したのです。
三成は逃亡しますが、とらえられ、後日処刑されてしまいます。
西軍に加わった仲間の武将への配慮が足りなかった
有利な布陣だったにもかかわらず、敗北を喫した理由はいくつか考えられますが、その1つに三成は、段取りや配置など事務的な企画力には秀でていたものの、人的なケアが不十分だったことがあります。
実際、夜討ちなどの奇襲攻撃を提案したものの、三成に却下された島津家は、三成に反発し、関ヶ原の戦いではほとんど戦いに参加しませんでした。
過去に三成により領地縮小の危機に直面した小早川家も、三成に素直には従えない感情があったでしょう。
こうした抵抗や反発に対して、三成が丁寧にケアしていたら、島津家や小早川家は三成側に加勢し、関ヶ原の戦いの結果は違ったものになったかもしれません。
勝利を収めた家康は、多くの大名に自分の味方となるようケアをする手紙を送っていますが、三成についてそのような手紙は、ほとんど残っていません(ただし、これは三成が負けたため、多くの手紙が処分された可能性があります)。