深いため息をつき「もう別れたい」

「自分は別のことを同時にやるのが苦手だから、もしも撮影に集中することになったら、一緒に話したり楽しんだりすることが全然できなくなっちゃう。100あった楽しみが60くらいになってしまう。目の前の子どもに向き合いたいから、そういうことはしたくない。君は器用だからできるんだろうけど、自分はそういうことはできない」と答えました。

この言葉が引き金となり、パートナーとの関係はぎくしゃくしていきます。三人で遊んでいるときも写真を撮ることは滅多になくなってしまいました。

これまでは子どもがぐずってしまったときにはすぐに面倒を見てくれていたパートナーは「それも親の仕事のうち。楽しいときだけ子どもと関わるのをやめてほしい」と言うようになり、男性はイライラして「だって普段から見てるのはお前なんだから、泣きやませるのも母親のほうがいいに決まってるだろ。なんでそんなこと言うんだよ、子どもがかわいそうだろ」と言いました。

パートナーは深く深くため息をつくと「もう別れたい」と思わず口にしてしまいました。一体ここでは何が起きているのでしょうか。

相手が払っているコストに無自覚

ここで男性が行っている言動は「撮影をしない、あるいはいやいやしかやらない」になります。言われた後少しはやるけれども、明らかにやる気もないし、それは相手にも伝わっています。

どんなときにこの言動が起きているのでしょうか。このパターンを見てみると、日常や外出のときに、自分が楽しんでいるときだと思われます。「100あった楽しみが60くらいになってしまう」と言っていることからも、自分の楽しい時間が減ってしまう場面にその現象が起きています。

この背景にある構造はなんでしょうか。実はここには「そもそも、100楽しめるようにしているのは誰か」についての認識の欠落があるように思います。「ぐずりだしたら子どもを母親に渡せばよい」からこそ、「100楽しめている」のではないでしょうか。

100楽しめるようにするために、パートナーは何をしているのでしょうか。それは、パートナーの100をどのくらい減らすものなのでしょうか。そういったことの認識が完全に抜け落ちています。

そして、さらに奥にあるもの、その構造を支えるメンタルモデルはどのようなものでしょうか。

それは「自分の損得しか考えない」です。自分にとってどうか、という視点しかないとき、自分にとって嬉しいことが起きたとき、それが何によって支えられているか気づきません。そして自分にとって嫌なことが起きて、誰かに解決を任せて嫌なことを回避できたとき、相手がどんなコストを支払っているのかに無自覚です。

手で顔を覆う女性のイメージ
写真=iStock.com/mapo
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