同時代史料から見える晴明の実像は地味な役人にすぎない

貴族の日記に登場する安倍晴明は、天体の異変を密奏し、怪異現象を占い、行事の日時を選び出しあるいは鬼気きき祭、熒惑星けいわくせい祭、泰山府君たいざんふくん祭、反閇へんばい追灘ついな玄宮北極げんぐうほっきょく祭といった陰陽道祭祀、呪術に携わっていることが見える。朝廷、天皇、貴族たちのために決められた行事に仕えている「役人」の姿が浮かんでこよう。同時代史料から見える安倍晴明の実像は地味な役人にすぎない、というのが歴史学からの見解だ。

けれども史料をさらに読み込んでみると、その奥からは、先例にしたがって、ルーティンワークをこなしているだけの「ただの官人」とは違う相貌が浮かび上がってくる。

「泣不動縁起」、安倍晴明が疫病神を退治する様子
「泣不動縁起」、安倍晴明が疫病神を退治する様子(画像=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

たとえば天皇や貴人が外出するとき「禹歩うほ」というマジカルステップを踏み、貴人が歩行する場の邪気を祓う「反閇」という陰陽道の呪術作法がある。晴明は長保ちょうほう2年(1000)10月、一条天皇が新造された内裏に初めて入御するとき、先例とは違う作法で「反閇」を行っている。先例違反にもかかわらず、晴明は当時の人びとから「(陰陽)道の傑出者」として誉めたたえられている。何事も先例の通りに、というのが常識の貴族社会では、きわめて異例なことといえよう。

病気治療、延命長寿の新しい祭祀を始め、都人に支持された

12月晦日みそかには内裏、京中から疫鬼を追い払う「追灘」が行われる。陰陽師が祭文をむ重要な行事だが、長保3年(1001)うるう2月は一条天皇の母が死去し諒闇りょうあんのために追灘を停止ちょうじするという命令がでた。

ところが晴明は私宅において追灘を執行した。すると多くの京中の人びとが晴明の追灘に呼応し、「やろう」という声を唱和したという。そこで晴明は「陰陽の達者なり」と賞賛された。こうした記事からは、たんに先例にしたがっているだけの小役人ではない姿が浮かんでこよう。

また病気治療、延命長寿の祭祀として行われる「泰山府君祭」や「玄宮北極祭」といった陰陽道祭祀そのものも、じつは晴明自身が創出した新例の儀礼であったようだ。とくに「泰山府君祭」は、『今昔物語集』など後の説話などにも取り上げられ、晴明を伝説化していった有名な陰陽道祭祀であるが、同時代の史料上も幼帝・一条天皇のために行った晴明の執行が初出であった。