※本稿は、斎藤英喜『陰陽師たちの日本史』(角川新書)の一部を再編集したものです。
人間離れした85歳という長命で平安時代を生きた晴明
安倍晴明の実像は、いまだ多くの謎に包まれている。父は安倍益材という名前は伝わっているが、母は不明。信太の森の妖狐というのは、もちろん後世の伝説だ。生まれたのは延喜21年(921)。古代の律令国家体制が変質しはじめたころである。亡くなったのは寛弘2年(1005)。85歳の生涯だ。当時としては、ほとんど人間離れした驚異的な長命であった。ちなみに、亡くなった年も、晴明は藤原道長や一条天皇の中宮・彰子のために陰陽師としての仕事をしている。まさに生涯現役であった。
小説やマンガ、テレビ、映画などに登場する安倍晴明は、ちょっと神秘的なたたずまいのニヒルな若い貴公子だが、記録のうえでは、晴明の若い時代のことは一切不明であった。少年時代に鬼の来るのを察知して師匠を救ったとか、貴族たちにせがまれて式神の術を使って蛙を殺めたというのは有名なエピソードだが、それはすべて晴明の死後、平安末期に編纂された『今昔物語集』の説話である。
あるいは次のような面白い伝承もある。晴明が大舎人(天皇の身の回りに仕える下級官人)であったとき、瀬田橋のたもとで慈光という男に「一道の達者」となることを告げられ、「陰陽師具曠」に弟子入りしようとしたが断られた。次に「賀茂保憲」のところに行くと、保憲は即座に晴明の「相」を見抜き弟子にしたという。これも鎌倉時代、13世紀成立の『続古事談』に載るものだ。
40歳で朝廷の陰陽寮の学生、博士となったのは52歳
これにたいして安倍晴明が生きた同時代の史料から確認できるのは、40歳のときに陰陽寮の「天文得業生」として、焼失した天皇守護の霊剣を再鋳造するため「五帝祭」という祭祀に関わったのが最初だ。それ以前の同時代の記録はない。40歳で「学生」というのは、当時の通例の学制、官吏登用のルートからすれば、たいへんに遅い。晴明が天文生になるまでに様々な人生の曲折があったと十文字学園女子大学教育人文学部教授・武田比呂男氏は推測している。彼が「天文博士」に昇進するのは、52歳なので、まさに遅咲きの人生であったといえよう。
さて、同時代史料から浮かび上がってくる安倍晴明の実像は、映画やテレビ、小説のなかの若き呪術のスーパースターといったイメージとはまったく違う。地味で堅実な陰陽寮勤めの小役人というところだろう。鬼と戦い、悪霊を封じるような魔術師としての姿などは、まったくの虚構である、と。
けれども、そうだとしたら、そんな地味な役人が、なぜ後世、様々な伝説に彩られた天才的な陰陽師として語られたのだろうか。誰もが感ずる疑問であろう。はたして本当に歴史上の安倍晴明は、ルーティンワークをこなしている「ただの官人」(甲南大学文学部教授・田中貴子氏による)でしかなかったのか――。
同時代史料から見える晴明の実像は地味な役人にすぎない
貴族の日記に登場する安倍晴明は、天体の異変を密奏し、怪異現象を占い、行事の日時を選び出しあるいは鬼気祭、熒惑星祭、泰山府君祭、反閇、追灘、玄宮北極祭といった陰陽道祭祀、呪術に携わっていることが見える。朝廷、天皇、貴族たちのために決められた行事に仕えている「役人」の姿が浮かんでこよう。同時代史料から見える安倍晴明の実像は地味な役人にすぎない、というのが歴史学からの見解だ。
けれども史料をさらに読み込んでみると、その奥からは、先例にしたがって、ルーティンワークをこなしているだけの「ただの官人」とは違う相貌が浮かび上がってくる。
たとえば天皇や貴人が外出するとき「禹歩」というマジカルステップを踏み、貴人が歩行する場の邪気を祓う「反閇」という陰陽道の呪術作法がある。晴明は長保2年(1000)10月、一条天皇が新造された内裏に初めて入御するとき、先例とは違う作法で「反閇」を行っている。先例違反にもかかわらず、晴明は当時の人びとから「(陰陽)道の傑出者」として誉めたたえられている。何事も先例の通りに、というのが常識の貴族社会では、きわめて異例なことといえよう。
病気治療、延命長寿の新しい祭祀を始め、都人に支持された
12月晦日には内裏、京中から疫鬼を追い払う「追灘」が行われる。陰陽師が祭文を誦む重要な行事だが、長保3年(1001)閏2月は一条天皇の母が死去し諒闇のために追灘を停止するという命令がでた。
ところが晴明は私宅において追灘を執行した。すると多くの京中の人びとが晴明の追灘に呼応し、「灘やろう」という声を唱和したという。そこで晴明は「陰陽の達者なり」と賞賛された。こうした記事からは、たんに先例にしたがっているだけの小役人ではない姿が浮かんでこよう。
また病気治療、延命長寿の祭祀として行われる「泰山府君祭」や「玄宮北極祭」といった陰陽道祭祀そのものも、じつは晴明自身が創出した新例の儀礼であったようだ。とくに「泰山府君祭」は、『今昔物語集』など後の説話などにも取り上げられ、晴明を伝説化していった有名な陰陽道祭祀であるが、同時代の史料上も幼帝・一条天皇のために行った晴明の執行が初出であった。
「陰陽師」とは官職ではなく個人的な依頼を受け祭祀を行った
さらに晴明が行ったその「泰山府君祭」は、前日まで予定されていた密教修法の「焰魔天供」に代わるものとして執行されたことが確認できる。その背景には、泰山府君祭が密教との競合・吸収のなかから晴明自身によって開発された儀礼であることが推測できるのである。
「泰山府君」とはもともとは中国の民間信仰にルーツをもつ、延命長寿をもたらしてくれる「神」であった。それが晴明の陰陽道に取りこまれて、あらたな神格をとげていったのだ。このときの泰山府君祭の効験によって、貴族社会に泰山府君信仰が広がり、とくに藤原行成は晴明の指示にしたがって、早朝から泰山府君への祈りを行っていたこともたしかめられる。
ところで『今昔物語集』をはじめとした説話集などでは、安倍晴明は当代一流の陰陽師と呼ばれるように、彼が「陰陽師」であることは誰も疑わないだろう。だが、その場合の「陰陽師」とは、陰陽寮という役所のなかの官職名ではなく「官制に関わらない職業としての陰陽師」と認識するのが正しいようだ(日本史学者・山下克明氏による)。
藤原道長の外出日時を選ぶなどフリーの占術師として活動
晴明が「陰陽師」として、一条天皇の外出に際して反閑という呪術を行ったり、道長の外出するときの日時を選定したり、また泰山府君祭、玄宮北極祭という延命長寿を祈る祭祀を執行しているときは、彼はすでに陰陽寮を退官し、主計権助(中央財政を管轄する役所の名目上の次官)、左京権大夫(朱雀大路の東側を管轄する役所の名目上の長官)、大膳大夫(朝廷の宴会料理を担当する役所の長官)など、別の役所の官人となっていた。にもかかわらず晴明は「陰陽師」として占いや呪術、祭祀を天皇や貴族たちに頼まれて行っていたのである。
ようするに陰陽寮をやめたあとのフリーの祈禱師、占術師として活動するのが「陰陽師・安倍晴明」の実像であったといえよう。陰陽寮を離れたあとも、彼が「陰陽師」として人びとの依頼、期待にこたえていたのは、陰陽寮という役所とは無関係に、自らの術や技でのみ活動しうる、「術法の者」として生きていたからだろう。まさに「道の傑出者」「陰陽の達者」としての陰陽師である。
功績を誇り、自己PRに長けたしたたかな一面もあった
さらに晴明は、中止された追灘を私宅で行ったら、京中の人びとが呼応して、あたかも恒例のようであったと、明法博士・惟宗允亮に自慢げに伝えたり、あるいは一条天皇のために勤めた御禊に験があったことを、藤原実資にわざわざ報告したりするように、晴明自身が自らの陰陽師としての功績を宣伝してまわっていたという、したたかな一面も見いだせる(歴史学者・繁田信一氏による)。
「道の傑出者」「陰陽の達者」という人びとからの賞賛は、彼の実力であるとともに、自分を優れた陰陽師として喧伝していった背景が想像されるのである。このように貴族社会に広がっていく安倍晴明の「名声」が、後の伝説化のベースになったことは、充分考えられよう。
宗教家としての才覚があり、名声を得たが同業者とは対立
もう一度いえば、晴明が「陰陽師」として貴族社会で活躍したときは、すでに彼は陰陽寮から退官し、他の役職についていた。それは個人救済を担う「陰陽師」が、律令国家組織の陰陽寮とは別枠で活動していくことを暗示している。陰陽師としての安倍晴明は、陰陽寮の役人としてではなく、彼の個人的な技能や呪力で貴族たちとの私的な関係を結び、その救済を担った、まさにひとりの「宗教者」として生きたのである。ここにこそ安倍晴明の立ち立置を見定めるべきだろう。
いいかえれば呪術職能者、宗教者としての陰陽師であるからこそ、儀式の先例に従うことなく、自分の判断で新しい作法やワザを編み出していくのだ。それは自分の師匠筋にあたる賀茂忠行や、兄弟弟子となる賀茂光栄とのあいだにも、指導や伝授、尊敬や従順・協調といった関係に収まらない、まさにワザと術に生きるものとしてのシビアな関係をも作りだすことになるのである。