議論が必要だったのではないか
トランスヘイターであるという、先の2冊の作者たちは、「過去にトランスジェンダー問題について発言したため、永遠に発言の場(プラットフォーム)を与えないようにしなければならない」とされている。こうした現象のことを、「ノープラットフォーミング」、近年では「キャンセル」とも呼ぶ。
重要なのは、こうした人たちが「実際に何を言ったか/言おうとしているか」ではない。トランスジェンダーを傷つけることを言うかもしれないという可能性があるのだから、発言できないようにすべきであり、本も発売中止されなければならないというわけだ。
もちろん誰かを意図的に傷つけたりすることは許されないし、傷つける意図がなかったとしても、誰かを傷つけることは避けるべきだろう。しかし、他の国では翻訳されている本が出版されないということは、「知る権利」を侵しかねない。
「著者の思想がおかしい」「内容に誤りがある」ということであれば、出版停止を求めるのではなく、書籍を読んだうえで、真っ向からそうした議論をすべきではなかったのか。
とくに、当該の本を待ち望んでいたのは、性別違和に苦しむ当事者の子どもたちではなかったのだろうか。今後の人生に、どのような選択肢があり得て、どのようなリスクがあるのか、そういうことを知ったうえで性別違和の治療を受けたいと望むのは、当然の願いではないだろうか。少なくとも他国で裁判をしている当事者の子どもたちは、そう主張している。
そういった意味でも、今回の出版停止は残念であった。
1968年生まれ。東京大学文学部社会学科卒業。東京外国語大学外国語学部准教授、コロンビア大学の客員研究員などを経て、武蔵大学社会学部教授。専門は現代社会学。家族、ジェンダー、セクシュアリティ、格差、サブカルチャーなど対象は多岐にわたる。著作は『日本型近代家族―どこから来てどこへ行くのか』、『女性学/男性学』、共著に『ジェンダー論をつかむ』など多数。ヤフー個人