伏見城内の自宅に逃れた三成を七将が追い、家康がかばった

しかし、七将は三成を逃すまいと追跡してくる。この危機的状況を調停したのが、家康でした。家康は三成を居城がある佐和山(滋賀県彦根市)に引退させることで、七将の怒りを鎮めたのです(そして、蜂須賀家政や黒田長政らの朝鮮出兵に関する名誉回復もなされました。蜂須賀・黒田らに落ち度はないとされたのでした)。

『徳川実紀』によると「三成は徳川家の害となるもの。七将の三成襲撃はもっけの幸いであり、これを機会に三成の年来の罪を糾明し、殺すべきだ」と徳川家臣は、家康に勧めたようです。しかし、家康はそのようなことをするつもりは、全くないように見受けられたとのこと。そうしたとき、謀臣として知られる徳川家臣・本多正信が家康の寝所に深夜に参上します。

正信は「殿(家康)は、今回の三成のことをどのように考えておられますか」と問うたといいます。すると家康は「そのことを色々と思案しているのだ」と回答。正信は家康の返答を聞くと「お考えになっているのであれば、それにて最早、安心です」と言い、退出したとのこと。正信は、家康は三成を助けるであろうと踏んで、我が意を得たりとばかり、退いたのでしょう。

家康は七将の暴挙を許せば政情が乱れると考えたか

家康としても、七将による三成襲撃という「暴挙」を黙認できなかったと思われます。調停せず、黙認すれば、政情は乱れ、場合によっては、家康のリーダーシップに疑問符が付けられてしまうこともありえるでしょう。そのような最悪の状況を避けるには、七将の行動を抑止し、三成を佐和山に引退させて、事態の決着を図るしかないと、家康は考えたのでしょう。

伏見城の見取り図、上部に「治部少舗(三成)曲輪」とある。
伏見城の見取り図、上部に「治部少舗(三成)曲輪」とある。「山城国伏見城諸国古城之図」(図版=浅野文庫所蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons

『徳川実紀』には、家康は七将に使者を派遣し「三成の旧悪は言うまでもないが、三成は既にお前たちの猛威に恐れて、伏見にまで逃れて来ている。それで、各々の宿意も達したと思われるので、ここまでにしてはどうか。穏便の処置こそ、望ましい」と説得したとあります。

秀吉死後は、毛利輝元と四奉行(石田三成・増田長盛・長束正家・前田玄以)を中心とするグループなどが形成され、家康を牽制する動きがあったとされます。この騒動は、毛利輝元を中心とするグループと、家康を中心とするグループとの対立が露わになったものとも解釈できるでしょう。