秀吉の死後、その盟友・前田利家も死ぬと、五奉行の石田三成は秀吉子飼いの家臣・加藤清正らに命を狙われた。作家の濱田浩一郎さんは「このとき三成は家康の屋敷に逃げ込んだとも言われてきたが、実際には伏見城内の自邸にこもった。家康も家臣から『これは三成を殺す好機だ』と勧められたが、家康はそうしなかった」という――。
狩野探幽画「徳川家康像」
狩野探幽画「徳川家康像」(画像=大阪城天守閣所蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons

家康ら五大老と石田三成ら五奉行の合議制が始まった

石田三成の失脚事件について見る前に、天下人・豊臣秀吉死後の情勢について確認しておきましょう。慶長3年(1598)8月18日、秀吉は伏見城にて病死します。秀吉は生前、徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家らいわゆる「五大老」に「秀頼の事、頼み申し候」と後継者・豊臣秀頼(5歳)の行く末を衷心ちゅうしんより依頼していました。

そうした秀吉からの度重なる依頼に対し、家康は五奉行(前田玄以・浅野長政・増田長盛・石田三成・長束正家)へ、起請文(誓約書)を提出しています(8月5日)。そこには「秀頼に奉公すること」「法度を遵守すること」「私的な遺恨を企てないこと」「徒党を組まないこと」などが誓われていました。五奉行からも、ほぼ同じような内容の起請文が、家康と前田利家に提出されます。そして、秀吉死後には、五大老・五奉行が連署して、起請文がまた作成されたのでした。

その内容は、私的な遺恨を企てないこと。讒言ざんげんに同心しないこと。徒党しないこと。秀頼に対し、悪逆のことがあろうとも、その罪を確認した上で成敗することなどでした。秀吉の遺言のなかに「家康は伏見城にあって政務を執ること」とありましたので、家康は江戸に帰ることをせず、伏見で年を越しました。

秀吉が禁じた大名家同士の婚姻を次々に行った家康

明けて、慶長4年(1599)正月10日、豊臣秀頼はこれまた父・秀吉の遺言により、伏見城から大坂城へと移ります(もり役の前田利家も同行していました)。家康もこれに同行していますが、同月12日頃には伏見に戻っています。

さて、秀吉政権下においては「大名間の婚姻は、秀吉の御意を得て行うこと」という「御掟」がありました。いわゆる「私婚」が禁じられていたのです。ところが家康は、慶長4年に入ると、大名と次々に婚姻を約束し始めます。家康の6男・松平忠輝を伊達政宗の長女と結婚させる。家康の養女たちを、福島正則の養子(正之)や蜂須賀家政の子息(豊雄)に嫁がせる。そうした約束を家康が行ったことから「私婚問題」が勃発するのです。

家康は「四大老」や五奉行から「掟違反」を詰問されますが(1月19日)、数日以内に、問題は解決したようです。2月5日、家康は起請文を四大老と五奉行に提出していますが、そこには「今回の婚姻のことについては(あなた方の意見が)尤もであること承知した。今後とも遺恨に思わず、以前と変わりなく入魂(親密)であること」「太閤様(秀吉)の御掟に反するときは、10人がそれを聞きつけ次第、お互いに意見すること。それでも納得しない時は、残りの者が一同に意見すること」「掟に背いた場合は、10人が詳しく調べた上で、罪科に処すこと」といった内容が記されていました。