家康ら五大老と石田三成ら五奉行の合議制が始まった
石田三成の失脚事件について見る前に、天下人・豊臣秀吉死後の情勢について確認しておきましょう。慶長3年(1598)8月18日、秀吉は伏見城にて病死します。秀吉は生前、徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家らいわゆる「五大老」に「秀頼の事、頼み申し候」と後継者・豊臣秀頼(5歳)の行く末を衷心より依頼していました。
そうした秀吉からの度重なる依頼に対し、家康は五奉行(前田玄以・浅野長政・増田長盛・石田三成・長束正家)へ、起請文(誓約書)を提出しています(8月5日)。そこには「秀頼に奉公すること」「法度を遵守すること」「私的な遺恨を企てないこと」「徒党を組まないこと」などが誓われていました。五奉行からも、ほぼ同じような内容の起請文が、家康と前田利家に提出されます。そして、秀吉死後には、五大老・五奉行が連署して、起請文がまた作成されたのでした。
その内容は、私的な遺恨を企てないこと。讒言に同心しないこと。徒党しないこと。秀頼に対し、悪逆のことがあろうとも、その罪を確認した上で成敗することなどでした。秀吉の遺言のなかに「家康は伏見城にあって政務を執ること」とありましたので、家康は江戸に帰ることをせず、伏見で年を越しました。
秀吉が禁じた大名家同士の婚姻を次々に行った家康
明けて、慶長4年(1599)正月10日、豊臣秀頼はこれまた父・秀吉の遺言により、伏見城から大坂城へと移ります(傅役の前田利家も同行していました)。家康もこれに同行していますが、同月12日頃には伏見に戻っています。
さて、秀吉政権下においては「大名間の婚姻は、秀吉の御意を得て行うこと」という「御掟」がありました。いわゆる「私婚」が禁じられていたのです。ところが家康は、慶長4年に入ると、大名と次々に婚姻を約束し始めます。家康の6男・松平忠輝を伊達政宗の長女と結婚させる。家康の養女たちを、福島正則の養子(正之)や蜂須賀家政の子息(豊雄)に嫁がせる。そうした約束を家康が行ったことから「私婚問題」が勃発するのです。
家康は「四大老」や五奉行から「掟違反」を詰問されますが(1月19日)、数日以内に、問題は解決したようです。2月5日、家康は起請文を四大老と五奉行に提出していますが、そこには「今回の婚姻のことについては(あなた方の意見が)尤もであること承知した。今後とも遺恨に思わず、以前と変わりなく入魂(親密)であること」「太閤様(秀吉)の御掟に反するときは、10人がそれを聞きつけ次第、お互いに意見すること。それでも納得しない時は、残りの者が一同に意見すること」「掟に背いた場合は、10人が詳しく調べた上で、罪科に処すこと」といった内容が記されていました。
長老・前田利家が死ぬ前後、家康は何を考えていたのか
家康は私婚について、四大老らから突っ込まれることは、おそらく最初から予想していたでしょう。その時は(このように話をまとめよう)ということはある程度は考えていたはずです。それが前掲の起請文の内容だったように推測します。四大老らの家康に対する意見を「御理」(道理)とした上で、今後の対応策を提示する。それで、私婚問題を不問に付してもらい、物事を丸く収める。追及された際は、このように乗り切ろうと、家康が考えていたからこそ、問題が起こっても、すぐに解決の方向に向かったのではないでしょうか。
さて、閏3月3日、かねてより、病であった前田利家が大坂で亡くなります。「五大老」の1人・前田利家の死の直後、加藤清正・福島正則・蜂須賀家政・黒田長政・藤堂高虎・細川忠興ら「七将」が石田三成を襲撃しようとする事件が起こります(近年では、襲撃ではなく、三成を訴えようとしたとも言われています)。
三成が加藤清正ら朝鮮出兵組に恨まれていた理由とは
では、七将は、三成になぜ遺恨を抱いていたのでしょう。それは、朝鮮出兵の際、三成方の軍目付(福原長堯)の報告により、彼らが秀吉から譴責処分を受けたことによるとされます。朝鮮半島在陣の彼らが、戦線を縮小しようとしたと弾劾。秀吉は激怒し、蜂須賀家政と黒田長政は蟄居と領地の一部没収。藤堂高虎や加藤清正は譴責処分を受けたのです(こうしたこととは別に、三成ら吏僚派と、七将ら軍人派との間に確執があったとされます)。
七将の不穏な動きを聞いた三成は、伏見城内の自邸に逃れます。かつては家康の屋敷に逃れたのではと言われていましたが「伏見城内の治部少曲輪」にある自分の屋敷に避難したのでした。三成は自邸に逃れたは良いが、そこから出られなくなってしまいます。
一方、七将も三成を追い込みますが、伏見城内に乱入することはできません。膠着状態に陥るのです。ちなみに『徳川実紀』(徳川幕府が編纂した徳川家の歴史書)には、七将による襲撃を聞いた三成は、急なことに驚き、恐れ「身の置所を知らず」とあります。宇喜多・上杉・佐竹といった大名は、三成と親しかったので「この危機を逃れるには、内府(家康)の意向を伺い、その憐れみを乞うしかない」とアドバイスし、三成もそれに従ったとあります。佐竹義宣は、深夜に三成を「女輿」に乗せて、伏見まで行かせたとも記されています。
伏見城内の自宅に逃れた三成を七将が追い、家康がかばった
しかし、七将は三成を逃すまいと追跡してくる。この危機的状況を調停したのが、家康でした。家康は三成を居城がある佐和山(滋賀県彦根市)に引退させることで、七将の怒りを鎮めたのです(そして、蜂須賀家政や黒田長政らの朝鮮出兵に関する名誉回復もなされました。蜂須賀・黒田らに落ち度はないとされたのでした)。
『徳川実紀』によると「三成は徳川家の害となるもの。七将の三成襲撃はもっけの幸いであり、これを機会に三成の年来の罪を糾明し、殺すべきだ」と徳川家臣は、家康に勧めたようです。しかし、家康はそのようなことをするつもりは、全くないように見受けられたとのこと。そうしたとき、謀臣として知られる徳川家臣・本多正信が家康の寝所に深夜に参上します。
正信は「殿(家康)は、今回の三成のことをどのように考えておられますか」と問うたといいます。すると家康は「そのことを色々と思案しているのだ」と回答。正信は家康の返答を聞くと「お考えになっているのであれば、それにて最早、安心です」と言い、退出したとのこと。正信は、家康は三成を助けるであろうと踏んで、我が意を得たりとばかり、退いたのでしょう。
家康は七将の暴挙を許せば政情が乱れると考えたか
家康としても、七将による三成襲撃という「暴挙」を黙認できなかったと思われます。調停せず、黙認すれば、政情は乱れ、場合によっては、家康のリーダーシップに疑問符が付けられてしまうこともありえるでしょう。そのような最悪の状況を避けるには、七将の行動を抑止し、三成を佐和山に引退させて、事態の決着を図るしかないと、家康は考えたのでしょう。
『徳川実紀』には、家康は七将に使者を派遣し「三成の旧悪は言うまでもないが、三成は既にお前たちの猛威に恐れて、伏見にまで逃れて来ている。それで、各々の宿意も達したと思われるので、ここまでにしてはどうか。穏便の処置こそ、望ましい」と説得したとあります。
秀吉死後は、毛利輝元と四奉行(石田三成・増田長盛・長束正家・前田玄以)を中心とするグループなどが形成され、家康を牽制する動きがあったとされます。この騒動は、毛利輝元を中心とするグループと、家康を中心とするグループとの対立が露わになったものとも解釈できるでしょう。
この騒動を解決して家康は伏見城に入り政局ナンバー1に
家康は今回の騒動を利用して、三成を中央政界から追放したと見ることもできます。ちなみに、三成を佐和山まで護送したのは、家康次男・結城秀康でした。三成は秀康の労を感謝し、正宗の名刀を秀康に贈ります。この刀は「石田正宗」と称され、現在は東京国立博物館に所蔵されています。
騒動を解決した家康は、閏3月13日、宇治川対岸にある伏見向島の屋敷から、伏見城西丸に入ることになります。これを聞いた奈良・興福寺の多聞院英俊は「天下殿になられ候」と『多聞院日記』に家康のことを記しました。関ヶ原合戦の前年ですが、家康を天下人と見做す認識は既に存在したのです。
※主要参考文献一覧
・笠谷和比古『徳川家康』(ミネルヴァ書房、2016)
・藤井譲治『徳川家康』(吉川弘文館、2020)
・本多隆成『徳川家康の決断』(中央公論新社、2022)
・濱田浩一郎『家康クライシス』(ワニブックス、2022)