音楽は人にどのような影響を与えるのか。脳科学者の中野信子さんは「音楽は、副作用のない薬のようなものだ。知らず知らずのうちに追い詰められ、誰にも助けを求められないうちに命を手放さざるを得なくなるまでになって沈んでいく人にも、特別な処方箋がなくとも届けることができる」という――。

※本稿は、中野信子『脳の闇』(新潮新書)の一部を再編集したものです。

音楽を聴けば頭が良くなる、は本当か

新型コロナウイルスのパンデミックのさなか、特にその初期には不要不急の最たるものとして攻撃の憂き目にあったのが、各種ライブではないだろうか。ライブハウスで感染者のクラスターが複数発生したことが問題視され、ライブハウスは軒並みクローズし、ライブも続々と中止された。音楽ファン、そしてライブ活動を中心にしている音楽業界の人々にとってはダメージも大きかっただろう。

音楽が脳に与える影響は大きい。このことは、これまでの数多くの研究によって示されている。集中力を高め、人の心を安んじ、判断を賢明にさせ、幸福度を上げる。脳は音楽にそれほど反応するものなのだ。これが不要不急のものとされてしまう現代文明こそ、むしろ歪んで狂っているのかもしれないとすら思う。ただし、音楽の有用性を示したい気持ちがはやるあまりに、性急な結論を出すことは避けなければならない。

1960年代から90年代までの約30年間、人間に対する音楽の影響を調べ続けたブルガリアの精神科医ロザノフは、PET(陽電子放射断層撮像法)を使い、音楽による学生の脳の働きの変化を調べた。彼の出した結論は、静かなバイオリンのメロディーは聴いている人をリラックスさせ、その能力を向上させる、というものだ。このため、知的能力についても音楽なしの状態と比べて5割程度上昇するという。

つまり、音楽を聴けば頭が良くなる、というようなことになるだろう。あまりに理想的な結果過ぎて、本当なのかどうか心配になってくるほどだ。

音符
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クラシックとハードロックでは脳への影響が違うのか

知見は蓄積されてはいる。音楽は、確かに脳を変化させる。だが、ロザノフは知能の向上にポジティブな効果を発揮するのはクラシック音楽など「芸術性」の高い音楽(この、芸術性、という言葉はかなり主観的で、定量性に欠けており、非科学的な響きを帯びているが、20世紀の科学界では大家になってしまえば、誰も指摘できなかったのかもしれない)、特に「脳を発達させるために」作曲されたリラックス用の音楽(これも同様の指摘をすることができよう)だけだという。一方、ハードロック、テクノ等は聴く人をアグレッシブにし、ネガティブな神経的結びつきを促進するというのである。

しかし、その機序はどうなっているのだろうか。ロザノフの言う「芸術性」の高いクラシック音楽の歴史はたかだか数百年であり、人類の歴史と比べてかなり浅い。しかも、欧州というごく限られた地域で発達した特殊な音楽であるにもかかわらず、なぜか世界標準とされている不可思議に、ロザノフはまるで切り込んでいない。恣意しい性の高い分類に誰も疑義を唱えないのは、彼の立場、年齢、性別、人種によって、多くの人が不審に思う前に納得させられてしまうからだ。「偉い先生がそうおっしゃるならそうなのだろう」と。あるいは疑義を抱いても黙らされてしまう。これは残念なことだが、未だにそういう風潮は完全に改められてはいない。