音楽は人を癒し、幸福感を与える
この知見は示唆に富んでいる。脳内で分泌されるオピオイドが、音楽の快感に直結しているということを、世界で初めて示した論文でもある。脳から分泌されるオピオイドは、鎮静作用と抑うつ効果を持つ。さらにドーパミン分泌を促進し、幸福感をもたらす。つまり音楽は、単なる空気の振動でも、時間が余った時にやるつまらない暇つぶしでもないのである。
音楽は間違いなく脳を動かし、食事やセックスや経済的報酬や他者からの承認や薬と同等に、時にはそれ以上に、心を癒し、人間に幸福感を与えるものであると証明されたということだ。音楽を聴いて気分が良くなると、その音楽を気に入って何度も聴いてしまう現象は、脳内麻薬が分泌された状態を持続したいと脳が感じるために、自然とその刺激に夢中になってしまうことによって起きる。
人類の歴史を繙いていくと、かなり昔の考古学的資料の中からも、楽器として用いられていたとみられるような出土品が見つかる。人類の歴史は、音楽と共にあったのだ。先述のように、音楽は思考や感情に影響を与える。
悲しい時には悲しい音楽に癒される
ノルウェーのベルゲン大学の心理学者、バシェフキンによれば、勇ましく元気でヒロイックな音楽は、思考力にパワーを与えて活性化させるという。また悲しい音楽は、気分をゆったりと落ち着かせるが、ネガティブな考えを誘発する傾向があるという。音楽は感情の調整役であることが先行研究からも裏づけられている中、思考に及ぼしている影響について精査したのがバシェフキンである。
面白いことに、悲しいことを経験しているときには、美しいけれど悲しいと感じる音楽を聴くと、つらい気分が和らぐことがわかっている。うつに悩む人たちは悲しい音楽を選好して聴くことがわかっているが、これはこうした音楽を選んで聴くと、自然と楽になることを経験的に知っているからだろう。
音楽は副作用のない薬のようなもの
バシェフキンの研究では、62人の被験者に対して、勇ましく元気な曲と、悲しい曲のそれぞれ一部について、6つ聴かせた後、質問に答えてもらう。曲には歌詞はなく、オーケストラの演奏で、それぞれ、テンポや音量をそろえ、勇ましく元気な曲と悲しげな曲とを一対のものとする。
2種の音楽は、それぞれ別々の思考やムードと関連していた。音楽が思考の内容にも影響を与えていることがわかったということになる。勇ましい曲を聴けば、感情だけでなく思考もより前向きで活動的・建設的になり、やる気が出るという。さらに、被験者たちが使う言葉にも変化があった。前向きで肯定的な言葉が多くなり、聴いた音楽がその思考や感情に対して直ちに影響を及ぼしたということを示唆する結果が得られたのだ。
音楽は、副作用のない薬のようなものだ。知らず知らずのうちに追い詰められ、誰にも助けを求められないうちに命を手放さざるを得なくなるまでになって沈んでいく人にも、特別な処方箋がなくとも届けることができる。これが不要不急のものだろうか? 研究データを読むにつけ、むしろ、先の見通しのない苦しい時代にこそ、必要不可欠のものなのではないのだろうかと訴えたい気持ちになってくるのだ。
東日本国際大学特任教授。京都芸術大学客員教授。1975年、東京都生まれ。東京大学大学院医学系研究科脳神経医学専攻博士課程修了。2008年から10年まで、フランス国立研究所ニューロスピン(高磁場MRI研究センター)に勤務。著書に『サイコパス』『不倫』、ヤマザキマリとの共著『パンデミックの文明論』(すべて文春新書)、『ペルソナ』、熊澤弘との共著『脳から見るミュージアム』(ともに講談社現代新書)、『脳の闇』(新潮新書)などがある。