「虎に翼」穂高重親教授のモデルは穂積重遠
女性初の裁判長になった三淵嘉子の人生をモデルに、ヒロイン寅子(伊藤沙莉)が法曹家として成長していく姿を描くドラマ「虎に翼」(NHK)。5月は銀行員である寅子の父親が収賄容疑で逮捕され、政界を巻き込んだ大疑獄「共亜事件」が展開したが、そこで父親の弁護を買って出たのが、寅子が通う明律大学法学部の教授・穂高重親(小林薫)だった。
明律大学(モデルは明治大学)法学部の教授で女子部の指導にも尽力、「共亜事件」のモデルとなった帝人事件の弁護も担当した高名な法学者となると、穂高のモデルは明らかに穂積重遠であると思われる。それでは、穂積重遠とは何者だったのか。
東京帝国大学教授・穂積重遠(1883~1951)は、これまた東京帝国大学教授の穂積陳重の長男として生まれた。朝ドラでは重「遠」がモデルだから重「親(近)」としたらしい。母はアノ渋沢栄一の長女・うた(宇多、歌子とも書く)である。なぜ、稀代の実業家・渋沢栄一の娘婿が帝大教授なのか。それはおいおい説明するとして、まず父・陳重の一生を簡単に振り返っておこう。
父の陳重は愛媛・宇和島の神童、文部省留学生として欧州へ
穂積陳重(1855~1926)は宇和島藩士・鈴木源兵衛重舒(のち鈴木重樹、穂積稲置と改名)の次男として生まれた。なぜ、親が鈴木なのに穂積姓を名乗っているかというと、鈴木氏は物部連穂積姓であることから、陳重の祖父が私的に穂積姓を使用していたからだ。ちょうど徳川氏が源姓、近衛家が藤原姓であるのと同様に、鈴木氏は穂積姓なのである。
陳重が満13歳(数え年でいえば14歳)の時に明治維新が起こり、その2年後の1870年に明治新政府は貢進生制度を導入した。各藩から1~3人の若手藩士(数えの16~20歳)を東京大学の前身である大学南校に留学させるルートを敷いたのだ。
陳重はべらぼうにアタマがよく、わりと家柄もよかったので、運良く貢進生に選ばれた。同期には、美作勝山藩出身の三浦和夫(のちの鳩山和夫。鳩山由紀夫の曾祖父)、日向飫肥藩の小村寿太郎などがいた。そして、1876年に文部省海外留学生に選ばれ、ミドル・テンプル(英国の法曹院)、およびベルリン大学に留学した。