※本稿は、青山誠『三淵嘉子 日本法曹界に女性活躍の道を拓いた「トラママ」』(角川文庫)の一部を再編集したものです。
「男が理想とする良妻賢母をめざすべき」という母の呪縛
「嘉子が男だったら良かったのに」
それが母ノブの口癖だった。親の身びいきを抜きにしても、頭の回転が早く賢い娘だと思う。歌や踊り、絵画など何をやらせても上手で多彩ぶりを発揮する。
男に生まれていれば、それなりの地位に就けるはず。自分の心配や苦労もかなり軽減されたと思う。
また、嘉子は自我が強くて気も強い。自分が納得しないことには、誰が言っても聞かず絶対に従わない。一歩下がって夫を立てるなんてことができる性格ではない。むしろ、一家の主人になったほうがしっくりときそうだ。
それは解ってはいるのだが。「女性の幸福は良縁に恵まれること」「男たちが理想とする良妻賢母をめざすべき」という呪縛にノブはとらわれつづけていた。嘉子の資質を察しながらも、その可能性に目を塞ふさいでいた。
昭和初期には「結婚しか選択肢がない」という状況も変わる
一方、貞雄はあいかわらずの放任主義。やりたいことをやらせて一切口を挟まない。
また、彼はインテリの知識人なだけに世の動向にも詳しく、女性をとりまく状況が変わりつつあることを感じ取っていた。
明治時代は16~17歳で結婚しても普通だった。女学校の最上級生になれば縁談話が次々に持ち込まれたものだったが、大正時代にはそれが18~20歳に。この頃になると20歳を超してから結婚する女性も珍しくなかった。
東京のような都市部だとその傾向がさらに顕著だった。昭和初期の平均初婚年齢は女性が23.1歳。数字だけ見ると戦後の昭和30年代と変わらない。女学校の卒業が近くなれば、親や親戚たちが焦って婿探しに奔走した明治の頃とは違う。
卒業後は丸の内あたりの会社に就職して職業婦人になるか、家で花嫁修業をしながら良縁を待つか。あるいは、女子大学や専門学校に進学するなど、晩婚化によって娘たちの選択肢は広がっていた。
嘉子も女学校卒業後は、どこかに進学しようと考えている。このまま花嫁修業をしながら家に籠もるというのは性にあわない。しかし、何を学べばいいのか、それについての答えがみつからない。
女子の最高学府である東京女子高等師範学校も、その附属女学校に通う彼女ならば容易に内部進学ができるだろう。子育ては良妻賢母の必須条件だが、高等師範で学んだ女性ならばそれは完璧と、女の価値はさらに上がる。一流の花嫁切符にはさらに箔がついて、良い条件の見合い話が次々と舞い込んでくるはずだ。また、他の女子大学に入って文学や美術を学ぶのもいい。お茶やお花と同じで、当時は女性が文学や美術を学ぶのも花嫁修業の一環のように世間では思われていた。