ドラマ「虎に翼」(NHK)で小林薫が演じ、理想的な教育者として描かれる穂高重親。系図研究者の菊地浩之さんは「穂高教授のモデルは有名な法学者・穂積重遠と思われる。重遠は渋沢栄一の孫として生まれ、のちに東宮侍従長にも選ばれたセレブリティだが、明治大学女子部を設立し、児童虐待防止法を実現させ、世のために尽くした」という――。

「虎に翼」穂高重親教授のモデルは穂積重遠

女性初の裁判長になった三淵嘉子みぶちよしこの人生をモデルに、ヒロイン寅子(伊藤沙莉)が法曹家として成長していく姿を描くドラマ「虎に翼」(NHK)。5月は銀行員である寅子の父親が収賄容疑で逮捕され、政界を巻き込んだ大疑獄「共亜事件」が展開したが、そこで父親の弁護を買って出たのが、寅子が通う明律大学法学部の教授・穂高重親ほだかしげちか(小林薫)だった。

「虎に翼」で穂高教授を演じている小林薫
写真=時事通信フォト
「虎に翼」で穂高教授を演じている小林薫。Netflix「THE DAYS」の舞台挨拶で(東京都新宿区、2023年5月30日)

明律大学(モデルは明治大学)法学部の教授で女子部の指導にも尽力、「共亜事件」のモデルとなった帝人事件の弁護も担当した高名な法学者となると、穂高のモデルは明らかに穂積重遠ほづみしげとおであると思われる。それでは、穂積重遠とは何者だったのか。

東京帝国大学教授・穂積重遠(1883~1951)は、これまた東京帝国大学教授の穂積陳重のぶしげの長男として生まれた。朝ドラでは重「遠」がモデルだから重「親(近)」としたらしい。母はアノ渋沢栄一の長女・うた(宇多、歌子とも書く)である。なぜ、稀代の実業家・渋沢栄一の娘婿が帝大教授なのか。それはおいおい説明するとして、まず父・陳重の一生を簡単に振り返っておこう。

父の陳重は愛媛・宇和島の神童、文部省留学生として欧州へ

穂積陳重(1855~1926)は宇和島藩士・鈴木源兵衛重舒しげのぶ(のち鈴木重樹、穂積稲置いなぎと改名)の次男として生まれた。なぜ、親が鈴木なのに穂積姓を名乗っているかというと、鈴木氏は物部連もののべのむらじ穂積姓であることから、陳重の祖父が私的に穂積姓を使用していたからだ。ちょうど徳川氏が源姓、近衛家が藤原姓であるのと同様に、鈴木氏は穂積姓なのである。

陳重が満13歳(数え年でいえば14歳)の時に明治維新が起こり、その2年後の1870年に明治新政府は貢進生こうしんせい制度を導入した。各藩から1~3人の若手藩士(数えの16~20歳)を東京大学の前身である大学南校なんこうに留学させるルートを敷いたのだ。

陳重はべらぼうにアタマがよく、わりと家柄もよかったので、運良く貢進生に選ばれた。同期には、美作みまさか勝山藩出身の三浦和夫(のちの鳩山和夫。鳩山由紀夫の曾祖父)、日向飫肥ひゅうがおび藩の小村寿太郎などがいた。そして、1876年に文部省海外留学生に選ばれ、ミドル・テンプル(英国の法曹院)、およびベルリン大学に留学した。

帰国後は東大法学部に勤め、わずか26歳で法学部長に抜擢

帰朝後、1881年7月に陳重は東京大学法学部に勤務し、翌1882年2月に東京大学教授兼法学部長に就任した。わずか26歳である。東京大学創業の頃であり、若年での抜擢も不思議ではないかもしれないが、それにしても若い。現在の26歳だと、大学院博士課程に相当する(博士課程修了は順当にいけば27歳)。その年で法学部長になっちゃうんだから……。

父親の穂積陳重
父親の穂積陳重(小川一真編纂『東京帝国大学』1900年/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

そんな将来有望な若者・穂積陳重に渋沢家からの縁談が舞い込んできた。

渋沢栄一は「当時自分には十九歳の長女とその妹がいたが、男の子(篤二とくじ)は一人でまだ十歳だったので、将来自分と長男の相談相手になるような婿を望んでいた。そこへ西園寺さいおんじがこの話を持って来てくれたので大変喜んだ」と述懐している。

ここでいう西園寺とは、のちの総理大臣・西園寺公望きんもちではない。旧宇和島藩士・西園寺公成きんしげ(1835~1904)だ。京都公家の西園寺家の支流が、鎌倉時代頃に伊予に進出したものの末裔で、公成は明治維新以降も旧藩主・伊達宗城だてむねなりの側近として仕えていた。

渋沢は自分の相談相手になる優秀な娘婿を捜していた

渋沢栄一が1869年に租税正そぜいのかみとして大蔵省に勤めた時、大蔵省トップの大蔵きょうは宗城だった。宗城は栄一の才覚を見込んで伊達家の経済顧問を委嘱したといわれている。そのため、公成は渋沢栄一と知己があり、栄一が優秀な人材を女婿に迎えたいと聞いて、旧宇和島藩士のホープ・穂積陳重を紹介したのだろう。

陳重は1888年に日本で最初の法学博士の学位を取得。法学のなかでも民法、親族法に詳しく、渋沢栄一が1891年に渋沢家の家法・家憲を定めるにあたって、その作成に関わった。その実績が認められて、1900年に三井家が家憲を制定するのにも関わっている。学者としてはそんな下世話な作業に関わるのは迷惑な話だが、三井家から1万円(現在の価値で4000万円相当か)の謝礼をいただいている。まぁ悪くないかな。

陳重は貴族院議員に任ぜられ、1915年には多年の法学界における功により男爵を授けられている。のちに枢密すうみつ顧問官、帝国学士院長、枢密院議長などを歴任している。

息子の穂積重遠も優秀すぎてエリートコースをばく進

さて、あまり長く陳重の履歴を語ってもしょうがないので、そろそろ重遠の話に入ろう。

穂積重遠は陳重・うた夫妻の長男として、深川の渋沢邸で生まれた。渋沢栄一にとっては初孫にあたる。重遠という名は、栄一が論語の一節「任重而道遠にんおもくしてみちとおし」(実行が困難なこと)から命名したという。なぜ「実行が困難」という名前を付けたのか。栄一の気が知れないが、おそらく鈴木家が「重」を通字にしていたので、「重」の字を使った論語の一節から命名したのだろう。

重遠は東京高等師範学校(現・筑波大学)附属小学校、および同中学校に学び、旧制第一高等学校(一高いちこう)に進んだ。当時の超エリート進学コースである。しかも、一高独法科には首席で入学したらしい。2位は親友の鳩山秀夫。鳩山和夫の次男で、首相・鳩山一郎の弟である。秀夫の方が一郎より頭がよかったといわれているので、重遠はそれ以上だったのだろう。

ニューヨークを訪問した渋沢栄一(中央)と孫の穂積重遠(左から2人目)
ニューヨークを訪問した渋沢栄一(中央)と孫の穂積重遠(左)、1915年(アメリカ議会図書館/PD-US/Wikimedia Commons

東京帝大法科を2位で卒業し1位の鳩山秀夫と共に講師に

重遠と秀夫はともに東京帝国大学法科大学(東京大学法学部)に進み、1908年に大学はじまって以来の優秀な成績で卒業(この時は秀夫が首席、重遠が2位だった)。二人とも同校の講師に採用された。

翌1909年、日露戦争の功績で有名な陸軍大将・児玉源太郎の次女・仲子なかこと結婚。重遠は「挙式届出同日主義」だったので、忙しいさなか婚姻届を書き、挙式に向かう足で区役所に届け出て母を驚かせた。ちなみに、戦前では家制度優先で、妻が妊娠してから婚姻届を出すという風習が少なくなかったので、法律家であるとはいえ、よほど珍しかったに違いない。

1912年から「民法及び法理学研究の為」3年にわたって、ドイツ・フランス・イギリス・アメリカに留学した。ただし、帰国後は法理学を捨て、民法に専念。1916年に33歳で東京帝国大学教授になり、「日本家族法の父」と呼ばれた。

児童虐待防止法を成立させ、「日本家族法の父」と呼ばれる

重遠は象牙ぞうげの塔に籠もるタイプではなかった。民法の大家として、民法改正、児童虐待防止法の制定などに関わっている。重遠は児童虐待防止法という名称にこだわった。児童愛護法のような曖昧あいまいな名称を避けて現実を直視すべきだと説いたのである(どこかの国の政治家サンたちに聞かせたい話だ)。

また、1923年の関東大震災では、焼け跡にバラックを建てて住み着いてしまう被災者の立ち退き問題が起こると、牧野英一らと論争を戦わせた。現実的な落とし所として借地借家調停法が活用され、重遠が日本橋区、牧野が京橋区、鳩山秀夫が小石川区・牛込区などを担当した。2024年1月に起こった能登半島地震で、法的な問題から倒壊家屋の撤去が進んでいないことが問題になっているが、重遠や牧野らがいればその打開に向けて行動していたに違いない。

穂積重遠『家族法の諸問題 穂積先生追悼論文集』1952年より
穂積重遠『家族法の諸問題 穂積先生追悼論文集』1952年より(国立国会図書館ウェブサイト/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

明大女子専門部を設立、女学生から「イノシシ」と親しまれる

1928年、重遠は松本重敏らと明治大学法学部に女子専門部を創設した。

重遠は民法・家族法の大家であり、その改正にも携わる。民法は家族や婦人のあり方に大きな影響を及ぼすのに、それを男性だけで行って、女性の参加を求めないのはおかしい。女性の法律家をつくるべきだという考え方が重遠にはあった。

弁護士法改正の折に、女性にも弁護士資格を認める案が出され、女子に法律を教える場が必要だとの気運が高まった結果、女子部の創設に繋がったのだという。重遠は背中を丸めて足早に歩くので、女学生たちから「イノシシ」というニックネームを与えられた。

1933年に弁護士法が改正され、1936年には実際に女性が高等文官試験司法科を受験することが可能となった。17人の女性(うち13人が明大女子部出身)が受験に参加したが、不合格。3年目の1938年になってようやく3人が合格を果たした。あまり書くと、ドラマ「虎に翼」のネタバレだと怒られてしまいそうなので、この話はこのあたりでやめておこう。

また、「虎に翼」に関連があるところだと、1934年に帝人事件が起こり、大学で同期だった大久保偵次ていじ・大蔵省銀行局長を弁護するために、重遠は1937年に特別弁護人として東京地裁の法廷に立っている(冒頭で述べたように、「虎に翼」の「共亜事件」では、ヒロインの父親が逮捕されたが、ヒロインのモデル・三淵嘉子の父親は逮捕されていない)。その重遠が1949年に最高裁判所判事に任官されているのは、皮肉というほかない。

重遠の次女は4歳の頃から昭和天皇の第一皇女のご学友に

また、重遠の次女・美代子が4歳の頃から昭和天皇の第一皇女のご学友に選ばれ、その縁で1945年8月10日(終戦の5日前)に東宮大夫とうぐうだいふ兼東宮侍従長じじゅうちょうに選ばれている。重遠はその前年1944年に貴族院議員に選任され、1926年には父の死にともなって男爵を継いでいるので、りっぱな貴族だったのだ。

なお、東宮大夫兼東宮侍従長の選任は内大臣・木戸幸一きどこういち(木戸孝允の孫)、皇后宮大夫・侍従次長の広幡忠隆ひろはたただたかの協議によって決定したのだが、この御両人は重遠の姻戚なのである。木戸は重遠の義弟(妻同士が姉妹)、広幡は義姪(妻の姪)の義兄なのだ。簡単に言ってしまうと、妻の父である児玉源太郎閥である。

東大はじまって以来の秀才で、親戚もズラリとセレブリティな男。それが穂積重遠だ。小林薫みたくカッコよくはなく、あだ名はイノシシなんだけど。

【図表1】穂積重遠と渋沢家をめぐる家系図

参考文献
・大村敦志『穂積重遠 社会教育と社会事業とを両翼として』(ミネルヴァ日本評伝選)
・穂積重行『明治一法学者の出発 穂積陳重をめぐって』(岩波書店)
・佐野眞一『渋沢家三代』(文春新書)