息子の穂積重遠も優秀すぎてエリートコースをばく進

さて、あまり長く陳重の履歴を語ってもしょうがないので、そろそろ重遠の話に入ろう。

穂積重遠は陳重・うた夫妻の長男として、深川の渋沢邸で生まれた。渋沢栄一にとっては初孫にあたる。重遠という名は、栄一が論語の一節「任重而道遠にんおもくしてみちとおし」(実行が困難なこと)から命名したという。なぜ「実行が困難」という名前を付けたのか。栄一の気が知れないが、おそらく鈴木家が「重」を通字にしていたので、「重」の字を使った論語の一節から命名したのだろう。

重遠は東京高等師範学校(現・筑波大学)附属小学校、および同中学校に学び、旧制第一高等学校(一高いちこう)に進んだ。当時の超エリート進学コースである。しかも、一高独法科には首席で入学したらしい。2位は親友の鳩山秀夫。鳩山和夫の次男で、首相・鳩山一郎の弟である。秀夫の方が一郎より頭がよかったといわれているので、重遠はそれ以上だったのだろう。

ニューヨークを訪問した渋沢栄一(中央)と孫の穂積重遠(左から2人目)
ニューヨークを訪問した渋沢栄一(中央)と孫の穂積重遠(左)、1915年(アメリカ議会図書館/PD-US/Wikimedia Commons

東京帝大法科を2位で卒業し1位の鳩山秀夫と共に講師に

重遠と秀夫はともに東京帝国大学法科大学(東京大学法学部)に進み、1908年に大学はじまって以来の優秀な成績で卒業(この時は秀夫が首席、重遠が2位だった)。二人とも同校の講師に採用された。

翌1909年、日露戦争の功績で有名な陸軍大将・児玉源太郎の次女・仲子なかこと結婚。重遠は「挙式届出同日主義」だったので、忙しいさなか婚姻届を書き、挙式に向かう足で区役所に届け出て母を驚かせた。ちなみに、戦前では家制度優先で、妻が妊娠してから婚姻届を出すという風習が少なくなかったので、法律家であるとはいえ、よほど珍しかったに違いない。

1912年から「民法及び法理学研究の為」3年にわたって、ドイツ・フランス・イギリス・アメリカに留学した。ただし、帰国後は法理学を捨て、民法に専念。1916年に33歳で東京帝国大学教授になり、「日本家族法の父」と呼ばれた。