家康は意外と実力主義の人事で報酬もベースアップした

もともと家康はケチなのでどーんと気前よく領土をあげることはあまりないのですが、とりあえず自分のまわりで使って三千石増やしました、五千石増やしました、それからまた一万石増やしました、という形で少しずつ少しずつ上げていく。そうした堅実なところは家康らしいといえます。

しかしそれでも人事の基本は能力。その人の能力を家康が認めるか認めないか、その人ができるかできないかで決める。だから家康と家臣の関係は、三河武士団がよそと違って特別に忠誠心があつかったわけではないし、主人もまた格別に厚遇していたわけでもない。後世に広まった「精強無比で忠実なる三河武士がいた」といった伝説は、ますます嘘くさい話だなとなります。

歌川芳虎 作「東照宮十六善神之肖像連座の図」
歌川芳虎 作「東照宮十六善神之肖像連座の図」[出典=刀剣ワールド財団(東建コーポレーション株式会社)]

もうひとりの重臣・酒井忠次が冷遇されていたのはなぜか

二本柱のもうひとりは、酒井忠次。酒井氏は昔からの松平の家来で、忠次は家康の叔母さんの旦那。なので、血はつながっていないですが父方の叔父さんにあたります。この忠次が家来の筆頭第一号。しかし、実は酒井家は関東移転にあたって、四万石しかもらっていないのです。それはなぜかという話になります。

四万石でも、そこがものすごく大事な土地であればわかるのです。しかし酒井家に与えられたのは上総国の臼井というところで、別に要衝でも何でもない辺鄙へんぴな地域です。いったいなぜなんだ? と思ったときに、誰がいい出したのかわからないほど昔からいわれてきた説として、家康の嫡男・信康の切腹事件との関連が出てくることになります。

酒井忠次は、なかなかできる奴だった。織田信長は才能を愛する人なので、忠次も信長の信任を得ていた。だからこそ家康と信長の間の外交官みたいな役割も任せられていたのでしょう。その忠次が、信長の娘であり信康に嫁いだ五徳姫に十二カ条の不満を綴った手紙を持たされて信長のもとにやって来た。もちろん当時の手紙ですから、家来が中を見ることはできません。それを「預かってきました」と渡してみたら、中にはなんと旦那の悪口がいっぱい書いてあったわけです。

その中に信長がとても見過ごすことのできない内容がありました。「私を嫁いびりする姑の築山殿は武田とつながっています」という一条があったのです。