伊達政宗の家臣や直江兼続もスカウトしていた秀吉

一番有名なケースは直江山城守ですね。上杉家の重臣である直江兼続に「俺の家来になれ」と誘ったが、直江もまた「上杉の家来でけっこうです」ということで秀吉の誘いを断った。成功した例だと島津家家老の伊集院忠棟。忠棟は秀吉直属の大名として日向庄内を領しています。秀吉はこのような感じで引き抜きを試みているのです。

ひとつは人たらしの秀吉のことですから「お前のところのこいつ、有能だよな。ぜひうちにくれ」という感じで単純に「有能な人が欲しいから誘った」という理由も、もちろんあったと思います。しかしもうひとつには、有力な家臣は当然その家の重要機密を握っている。それを引き抜くことで、その家のデータを取ろうとした意図もあったのではないでしょうか。いざ引っこ抜いてしまったあとはわりと冷淡で、手厚く遇するということは案外ない。そうしたところを見るとやはり、情報を取ることが目的だったのかなと思います。

石川数正はこうした秀吉の誘いに乗った。家康より秀吉を選択した。それだけのことで、自分を犠牲にしてあえてスパイになったなどと、極端な理解をすることはない。やはり三河武士であっても、好条件を提示されたらそちらに行くということがある。それだけのことです。

単純に数正は秀吉が好条件を出したから誘いに乗った

石川は信濃の松本の城主になります。ただ、これもまた家康の我慢強いところですが、関ヶ原のあと、豊臣から天下を奪った段階で石川を潰しにかかるかというと、それはやらない。当時はすでに数正の息子の代になっていましたが、「数正にもいいたいことはあったのだろうし、奴なりの理屈もあったんだろう」という感じで、潰さないでそのままにしておく。

装甲の武士
写真=iStock.com/Josiah S
※写真はイメージです

家康という人は信長や秀吉のようには抜擢人事をやらない。信長は浪人出身の明智光秀を軍団長にまで引き上げましたし、そもそも木下藤吉郎時代の秀吉を起用している。その秀吉も大抜擢人事をやります。一番代表的な例は加藤清正です。加藤清正は「賤ヶ岳の戦い」で七本槍のひとりとして活躍し、その功で一躍三千石をもらう。それだけでもすごいのですが、その後、三千石からなんと二十数万石の大名に抜擢されます。「こいつは才能がある」と見込んだ人にはものすごい大抜擢をするわけです。

家康は、彼らのような人事はやらない。ですが昔ながらの世襲の考え方もあまりしておらず、「古くから松平の家来の家だから」と重く用いるようなことは案外やっていないのです。実際には、信長や秀吉に倣って、自分の目で見て「こいつは使えるな」と評価した人をしっかりと育てている。