甥っ子・関白秀次の女ぐせの悪さは秀吉譲りだったか
そういう話が出てくるほど、秀吉は男色に興味関心がありませんでした。彼の性愛に関する話は晩年になるまで生涯を通じて、女性との関係だけです。もしかすると、それは、秀吉が農民の出身だったからかもしれません。男色というのは武家においては当然の嗜みのような部分もあります。秀吉はそもそもが武家の出ではありませんから、そういうところに性的指向の違いが出てくるのかもしれません。
秀吉は晩年に淀殿との間に子が生まれるまで、世継ぎに恵まれませんでした。ようやく生まれた鶴松も、わずか2歳で亡くなってしまいます。そのため、甥にあたる秀次に関白職を譲り、豊臣家の後継者にしようと考えました。しかし、この秀次がどうもそこまで能力が高くない。そのせいもあったと思いますが、秀吉は、自分の跡目を継ぐにあたっての教訓状のようなものを、秀次に残しています。秀次に対して、自分の真似をしてはいけないと厳しく戒めたわけです。
どんなことを戒めたかというと、ひとつは鷹狩で、ひとつはお茶です。秀吉は鷹狩とお茶を非常に好んでいましたが、秀次に対してこういうことにうつつを抜かしてはいけないと言っています。
秀次は正室“一の台”の連れ子にも手を出したという
そして、三番目が女性です。他所で女性に手を出すと、いろいろと問題が起きてしまうからよろしくないのでそれはいけない。私のマネをしてはいけないよ、と戒めています。でもそれに続く言葉に呆れます。家のなかに五人くらい側室がいるのは全く問題ないよ、と言うのです。女好きだった秀吉、厳しく戒めているようで、その辺の貞操観念はとてもゆるい。
問題はこの秀次も、叔父の秀吉に負けず、無類の女好きだったようで、正室として池田恒興の娘をもらいますが、そのほかに多くの側室がいました。菊亭晴季の娘で、非常に美しい女性だった“一の台”こそが正室とも言われますが、“一の台”には前の夫との間に娘がおり、その娘を連れて秀次のもとに嫁に来ました。
その連れ子もまた美しい少女で、秀次は母親だけでなく娘のほうにも手を出した、などという逸話が伝えられています。なんともとんでもない話です。
1960年、東京都生まれ。東京大学・同大学院で日本中世史を学ぶ。史料編纂所で『大日本史料』第五編の編纂を担当。著書は『権力の日本史』『日本史のツボ』(ともに文春新書)、『乱と変の日本史』(祥伝社新書)、『日本中世史最大の謎! 鎌倉13人衆の真実』『天下人の日本史 信長、秀吉、家康の知略と戦略』(ともに宝島社)ほか。