徳川家康は生涯で20人ほどの側室を抱え、16人の子をもうけた。東京大学史料編纂所教授の本郷和人さんは「家康の恋愛面には謎が多い。前半生では側室がほとんどいなかったのに、嫡男が死ぬと、未亡人たちを側室にして子を産ませた。その一方、晩年に側室にしたのは若い女性ばかり。その事実を踏まえると、家康が本当に好きなタイプが見えてくる」という――。

※本稿は、本郷和人『恋愛の日本史』(宝島社新書)の一部を再編集したものです。

徳川家康の性愛――なぜか側室がほとんどいない前半生

徳川家康に関する性愛についていうと、非常に不思議なのは、若い頃にはほとんど側室をもうけていないという点です。今川氏の娘である築山殿を正室にもらい、嫡男の松平信康、長女の亀姫が生まれた後には、全くと言って子作りをしていません。

戦国の世ですから、嫡男がいるとはいえ、何が起こるかはわからない。ゆくゆくは戦場に立って戦死したり、病に罹って亡くなったりするかもしれない。だからこそ、多くの戦国大名は側室を持ち、産めよ殖やせよではありませんが、子どもをたくさん持つことを良しとしたわけです。

永嶌孟斎『大日本名家揃』(部分)(写真= 国立国会図書館デジタルコレクション)
永嶌孟斎『大日本名家揃』(部分)(図版=国立国会図書館デジタルコレクション)

しかし、浜松にいた頃の家康は、西郡局という側室しか置きませんでした。正室の築山殿とは浜松と岡崎で、別居していたのに。西郡局との間には家康にとっては次女にあたる督姫が生まれていますが、積極的に子どもを作ろうとはしていません。当時の家康は20代後半から30代くらいなわけですから、そうした意欲はあって然るべきでしょう。しかし、驚くほどにそういう話がないわけです。

それではこの西郡局が、家康のハートをしっかりとつかんで離さなかったかというと、そういう感じは全くないわけです。晩年の家康は、この西郡局を大事にしていないのです。西郡局が亡くなったときには、家康本人が葬儀を執り仕切るのではなく、娘の督姫の夫である池田輝政にその一切を任せてしまっています。

そのような態度を考えると、どうも西郡局を大切にしていたから、他に側室をもうけなかったということでもない様です。

子作りをしなかったのは信玄からのストレスが原因か

先にも述べたようにお家の繁栄のためには、子どもはたくさんいたほうがいいわけなので、そのためには側室を持つことは、戦国大名にとって悪いことではありません。むしろ当時の規範としては、推奨されていたことです。

では、なぜ若かりし頃の家康には側室がほとんどおらず、子どもも積極的に作ろうとしなかったのか。

この問いへの回答のひとつとして、甲斐の武田信玄が本当に怖くて、ストレスのあまり、とても女性を抱くなんていうことをイメージすらできなかったのではないかとも考えられなくはないでしょう。ブラック企業で働いて、労働の疲れとストレスのあまりにセックスレスになる、というのは現代でもよく聞くところです。

とはいえ、生物は死の恐怖を感じると、子孫を残そうとして性的な行動に走るともまことしやかに言われますから、武田信玄に対する恐怖という説もどこまで本当かは定かではありません。

男色がタブーではなかった戦国時代、家康はどうだったか

そうなるともうひとつ考えられるのが、当時の家康は男色に夢中だったから、側室を持たなかったという説です。

家康の男色というと、相手として挙げられるのが、彦根藩の初代藩主となる井伊直政です。松平徳川家と井伊家というのは、そこまで古いつながりのある家柄ではないものの、家康が関東入りしたときには徳川家臣団のなかで、井伊直政が最もたくさんの領地を与えられています。本多忠勝や榊原康政が10万石なのに対して、井伊直政だけが12万石ももらっている。そうなると、昔から松平徳川家を支えてきた三河武士たちからすると、「なんで直政だけが」ということになるのが自然です。

これは史料的にはあまり信頼性がないのですが、幕末から明治にかけて作られた人物伝『名将言行録』には、井伊直政は、徳川家康と男色の関係にあったから、あれほどの領地を与えられたのだと書かれています。三河武士としてはそうした納得の仕方をせざるを得なかったのやもしれません。

ただ、冷静に考えてみると、どうも徳川家康には側室だけでなくて、他に男色の話もほとんど聞きません。武士の嗜みとして、男色の相手がいたとしてももちろんおかしくはないのですが、そういう話はほとんどないのです。

ですから、井伊直政がそれだけの領地を得たというのは、やはり命懸けの奉公をした結果だろうと思います。直政は関ヶ原の戦いで奮闘し、島津軍を打ち破るなどの目覚ましい活躍を遂げますが、その際の銃撃の傷がもとで、若くして亡くなっています。

図版=永嶌孟斎「徳川家十六善神肖像図」(部分) (図版=国立国会図書館デジタルコレクション)
図版=永嶌孟斎「徳川家十六善神肖像図」(部分)(図版=国立国会図書館デジタルコレクション)

家康はなぜか側室の産んだ結城秀康を認めなかった

その後、家康は於万の方という側室をもうけて、彼女との間に二番目の息子が生まれています。この子どもがのちの結城秀康となります。嫡男の信康は、謀反の疑いをかけられて、結局、自害させられてしまうわけですから、順番で言えば、この秀康が世継ぎとなってもおかしくはないのですが、結局、その弟にあたる秀忠が、将軍職を継ぐことになります。

そのことからもわかるように、どうも家康はこの結城秀康を愛していないところがあります。当初は認知すらしていないのです。あまりにも毛嫌いするので、嫡男の信康が「それはあんまりです」と間に入って、ようやく息子として認めるわけですが、結局、世継ぎとしては認めませんでした。

能力はなかなかあったようですが、それでも認めなかったのはなぜか、理由というのは、実際のところよくわかっていません。

経産婦を側室にした家康だが、実はロリコンだった!?

家康は子作りに努力しなかった。それは、嫡男の信康がいれば、徳川家は安泰だというくらいに思っていたのかもしれません。若い頃に立て続けに子どもが生まれているわけですから、一応、自分には子どもを作る能力はちゃんとある。しかもすぐに出来のいい嫡男にも恵まれた。だったらそこまでがつついて子作りに励まなくてもいいだろう、というのが実際のところだったのかもしれません。

長男・信康は、織田信長との関係で、謀反を疑われ、自害しなければならなくなりました。その途端に、家康は子作りを始めています。それまで子作りをしなかったのは、それだけ信康を信頼していたということになるのかもしれません。

さて、後継と考えた嫡男が自害したため、急ぎ、子どもが必要になった家康は、自分の相手に確実に子どもを産んでくれる女性を選びます。確実にとなると、つまりそれは一度、子どもを産んだことがある女性、すなわち子持ちの未亡人です。こうした女性を側室に迎えて、すぐに家康は子どもをもうけたのです。なんだか計算づくで、色気も何もあったものではありませんが、堅実な家康ならではのエピソードと言えるでしょう。

喜多川歌麿作の、醍醐の花見を題材にした浮世絵「太閤五妻洛東遊観之図」(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
喜多川歌麿作の、醍醐の花見を題材にした浮世絵「太閤五妻洛東遊観之図」(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

その後、天下取りに邁進したのちに、徳川家が一応の安泰をみると、次第に家康は若い女性を側室として置くようになりました。となると、ロリコンこそが、家康の本性なのかもしれません。

豊臣秀吉の性愛――美少年には見向きもしない女好き

豊臣秀吉の場合、男色については、全くといって浮いた話はありません。むしろ、ありすぎるくらいにあるのは、徹底的な女好きのエピソードです。

たとえば、こんな逸話があります。「あれだけ女好きで色好みな殿下であるから、きっと美少年も好きに違いない」と噂した豊臣家の近臣たちが、ある日、大変に美しい美少年を用意して、広間で秀吉と二人っきりにさせたことがありました。そして、殿下がどんな行為に及ぶか、物陰からそっと覗き見ていたところ、秀吉はおもむろに少年に近づいて、肩を抱きかかえ、何事か声をかけている。近臣たちは「お、口説き始めたぞ」と思って、何が始まるのかワクワクしていると、そのまま少年から離れて、広間から出て行ってしまいました。

当てが外れたかなと近臣たちが物陰から出てきて、少年に「お主は殿下からどんな言葉をかけられたのだ」と聞くと、「殿下は私に、『お前に姉はいるか』とお尋ねになりました」と言ったそうです。

甥っ子・関白秀次の女ぐせの悪さは秀吉譲りだったか

そういう話が出てくるほど、秀吉は男色に興味関心がありませんでした。彼の性愛に関する話は晩年になるまで生涯を通じて、女性との関係だけです。もしかすると、それは、秀吉が農民の出身だったからかもしれません。男色というのは武家においては当然の嗜みのような部分もあります。秀吉はそもそもが武家の出ではありませんから、そういうところに性的指向の違いが出てくるのかもしれません。

秀吉は晩年に淀殿との間に子が生まれるまで、世継ぎに恵まれませんでした。ようやく生まれた鶴松も、わずか2歳で亡くなってしまいます。そのため、甥にあたる秀次に関白職を譲り、豊臣家の後継者にしようと考えました。しかし、この秀次がどうもそこまで能力が高くない。そのせいもあったと思いますが、秀吉は、自分の跡目を継ぐにあたっての教訓状のようなものを、秀次に残しています。秀次に対して、自分の真似をしてはいけないと厳しく戒めたわけです。

豊臣秀次像(写真=瑞雲寺所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
豊臣秀次像(写真=瑞雲寺所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

どんなことを戒めたかというと、ひとつは鷹狩で、ひとつはお茶です。秀吉は鷹狩とお茶を非常に好んでいましたが、秀次に対してこういうことにうつつを抜かしてはいけないと言っています。

秀次は正室“一の台”の連れ子にも手を出したという

本郷和人『恋愛の日本史』(宝島社新書)
本郷和人『恋愛の日本史』(宝島社新書)

そして、三番目が女性です。他所で女性に手を出すと、いろいろと問題が起きてしまうからよろしくないのでそれはいけない。私のマネをしてはいけないよ、と戒めています。でもそれに続く言葉に呆れます。家のなかに五人くらい側室がいるのは全く問題ないよ、と言うのです。女好きだった秀吉、厳しく戒めているようで、その辺の貞操観念はとてもゆるい。

問題はこの秀次も、叔父の秀吉に負けず、無類の女好きだったようで、正室として池田恒興の娘をもらいますが、そのほかに多くの側室がいました。菊亭晴季の娘で、非常に美しい女性だった“一の台”こそが正室とも言われますが、“一の台”には前の夫との間に娘がおり、その娘を連れて秀次のもとに嫁に来ました。

その連れ子もまた美しい少女で、秀次は母親だけでなく娘のほうにも手を出した、などという逸話が伝えられています。なんともとんでもない話です。