『ヒモザイル』がやろうとしていたこと

当時、とくに問題となったのは「ヒモ」という呼び方だった。お互いが納得した上でのマッチングであるはずなのに、なぜ男がヒモと呼ばれなければいけないのか。それは男を下に見ているからではないか。こうした意見が噴出したのである。

トミヤマユキコ『女子マンガに答えがある 「らしさ」をはみ出すヒロインたち』(中央公論新社)

ヒモが蔑称だというのは現段階では認めざるを得ないし、炎上したのも仕方がないのかもしれない。しかし、東村先生がやりたかったのは、ヒモという名のマイノリティが自分を否定し乗り越えようとするのではなく、経済力のある女性と協働して「ヒモですが何か?」ぐらいのテンションで生きていける社会を作ることだったはずだ。

女が「専業主婦です」と言うのと同じように、男が「ヒモです」と言えて、なんら波風の立たない社会。稼げる女と稼げない男が、それを理由に恋愛市場の周縁に追いやられない社会。『ヒモザイル』がやろうとしていたのは、そんな社会を作ることだったのではないだろうか。

当時、知り合いが言っていたことをいまでも思い出す。「ヒモザイルってEXILEをパロってるんでしょうけど、それだけじゃなくて、ヒモ(紐)に過ぎないと思っていたものがザイル(命綱)になる、っていうことなんじゃないですかね。ヒモと呼ばれるような男の人たちとか、それを養ってる女の人とかが、最終的に救われる話になるんじゃないですかね」……

その可能性は大いにあったと思う。なぜなら、東村アキコというマンガ家が手掛ける作品は、おおむね「困っている人たちについての物語」だからだ。

ママはテンパリスト』では夫の育児協力を望めない母、『主に泣いてます』では美人すぎて仕事にありつけない女、『東京タラレバ娘』では結婚したいけどできない女を描くなど、東村先生の作品には必ずといっていいほど困っている人が登場する。

恋愛の機会に恵まれない男性アシスタントとバリキャリ女性をくっつけようとした『ヒモザイル』も、「困っている人の系譜」に連なる作品として構想されていたと見ることができるだろう。

そんなわけで、わたしとしては(炎上してしまったことへの丁寧な説明は必要だと思うものの)連載をしばらく継続して、どういう展開になっていくのかをもう少しだけ見せてもよかったんじゃないかと思っている。もしかしたら貴重な社会実験の機会だったのかも、という気がしてならない。

エリート女子が貧乏男子を養う『きみはペット』

『ヒモザイル』が炎上したのは、生身の人間を使った実験であり、完全なるフィクションではなかったためだと思われるが、女子マンガの世界では、すでにいくつもの作品で養う女/養われる男が描かれており、とくに炎上もしていない。

小川彌生『きみはペット』は、その代表格と呼ぶべき作品だ。東大からハーバードに進み、新聞社のエリート記者となった「スミレ」こと「巌谷いわや澄麗」は、ある日、道ばたでひとりの貧乏男子を拾う。