2015年、月刊誌で連載が始まった東村アキコさんの『ヒモザイル』というマンガがSNSで大炎上し、連載2回で休止になった。マンガ研究家のトミヤマユキコさんは「わたしにとってこの騒動は、養う女への嫌悪感がもろに出たものとして、いまも鮮明に記憶されている」という――。(第3回/全3回)

※本稿は、トミヤマユキコ『女子マンガに答えがある 「らしさ」をはみ出すヒロインたち』(中央公論新社)の一部を再編集したものです。

住宅費を取るカップル
写真=iStock.com/takasuu
※写真はイメージです

根強い「養う女」への嫌悪感

「髪結いの亭主」や「ヒモ」といった存在に向けられる侮蔑の感情とちょっとの嫉妬を思うとき、わたしはいつも不思議な気持ちになる。女に養われている男に対して、社会はなぜこうも不寛容であり続けているのかと。

夫婦共働きが当たり前となった現代において、妻が夫の稼ぎを超えるのは、当たり前とまでは言わないけれど想定内のことだし、主夫になる人だってずいぶん増えた。時代は確実に変わってきているのに、経済力のある妻と結婚した夫は相も変わらず妙な偏見に晒されている。

世間が偏見を捨て切れていないので、本人たちも影響されないわけにはいかない。たとえば妻の収入が増えたことでセックスレスとなり、夫の収入がそれを上回ったらまた復活したという話を聞いたりする。夫婦関係における経済力の問題はかように根深いものである。

本当はパートナーが納得しているのであれば、髪結いの亭主だろうがヒモだろうが、外野が口出しする必要はないはずだ。しかし、世間は自分たちの考える「ふつう」からはみ出すような「いびつなカップル」を異端視し続ける。

この原稿を書いているPCでGoogleに「ヒモ」と入れると、関連項目として「末路」や「クズ」がサジェストされる。ついでに「主夫」と入れると「情けない」「恥ずかしい」がサジェストされることも付け足しておく。

かろうじてポジティブなサジェストは「専業主夫 なりたい」とか「ヒモ男 モテる」くらいのもの。養われる男たちの居場所が確保されるまでには、もう少し時間がかかりそうだ。

そして、こうした価値観の裏側に彼らを「養う女」への違和感(というか嫌悪感)があるのは言うまでもない。

大炎上した『ヒモザイル』

昔の話なのでみんなもう忘れているかもしれないが、2015年に東村アキコ『ヒモザイル』という「実録ヒモ男養成漫画」が大炎上した。

東村先生は、自分のところで働いている男性アシスタントのような「金ない仕事ないモテないダサい彼女いないでも夢はある(ここ重要)」男たちと、金はあっても恋人のいない女たちをマッチングしようと思い立ち、「ヒモザイル」を組織。彼らの恋愛模様をマンガにしようとしたが、発表直後からもうめちゃくちゃに炎上してしまって、連載はすぐ休止に追い込まれた。

わたしにとってこの騒動は、養う女への嫌悪感がもろに出たものとして、いまも鮮明に記憶されている。

『ヒモザイル』がやろうとしていたこと

当時、とくに問題となったのは「ヒモ」という呼び方だった。お互いが納得した上でのマッチングであるはずなのに、なぜ男がヒモと呼ばれなければいけないのか。それは男を下に見ているからではないか。こうした意見が噴出したのである。

トミヤマユキコ『女子マンガに答えがある 「らしさ」をはみ出すヒロインたち』(中央公論新社)

ヒモが蔑称だというのは現段階では認めざるを得ないし、炎上したのも仕方がないのかもしれない。しかし、東村先生がやりたかったのは、ヒモという名のマイノリティが自分を否定し乗り越えようとするのではなく、経済力のある女性と協働して「ヒモですが何か?」ぐらいのテンションで生きていける社会を作ることだったはずだ。

女が「専業主婦です」と言うのと同じように、男が「ヒモです」と言えて、なんら波風の立たない社会。稼げる女と稼げない男が、それを理由に恋愛市場の周縁に追いやられない社会。『ヒモザイル』がやろうとしていたのは、そんな社会を作ることだったのではないだろうか。

当時、知り合いが言っていたことをいまでも思い出す。「ヒモザイルってEXILEをパロってるんでしょうけど、それだけじゃなくて、ヒモ(紐)に過ぎないと思っていたものがザイル(命綱)になる、っていうことなんじゃないですかね。ヒモと呼ばれるような男の人たちとか、それを養ってる女の人とかが、最終的に救われる話になるんじゃないですかね」……

その可能性は大いにあったと思う。なぜなら、東村アキコというマンガ家が手掛ける作品は、おおむね「困っている人たちについての物語」だからだ。

ママはテンパリスト』では夫の育児協力を望めない母、『主に泣いてます』では美人すぎて仕事にありつけない女、『東京タラレバ娘』では結婚したいけどできない女を描くなど、東村先生の作品には必ずといっていいほど困っている人が登場する。

恋愛の機会に恵まれない男性アシスタントとバリキャリ女性をくっつけようとした『ヒモザイル』も、「困っている人の系譜」に連なる作品として構想されていたと見ることができるだろう。

そんなわけで、わたしとしては(炎上してしまったことへの丁寧な説明は必要だと思うものの)連載をしばらく継続して、どういう展開になっていくのかをもう少しだけ見せてもよかったんじゃないかと思っている。もしかしたら貴重な社会実験の機会だったのかも、という気がしてならない。

エリート女子が貧乏男子を養う『きみはペット』

『ヒモザイル』が炎上したのは、生身の人間を使った実験であり、完全なるフィクションではなかったためだと思われるが、女子マンガの世界では、すでにいくつもの作品で養う女/養われる男が描かれており、とくに炎上もしていない。

小川彌生『きみはペット』は、その代表格と呼ぶべき作品だ。東大からハーバードに進み、新聞社のエリート記者となった「スミレ」こと「巌谷いわや澄麗」は、ある日、道ばたでひとりの貧乏男子を拾う。

小川彌生『きみはペット(1)』(Kissコミックス)

美味しいごはんと温かい布団を提供すると、この男子は帰りたくないとゴネはじめるのだが、そんな彼にスミレは次のような条件を出す―「つまりペットとしてなら置いてあげてもいいわ/いい子にしてれば食事も作ってあげる/そのかわりわたしの言うことをきいてもらうわよ/どうする?」

スミレ自身も「なんてね/これはさすがに引くでしょ」と思うような条件だ。しかし男子は「ヨロシクッご主人様!!」と言い、名前も「名前? 好きなのつけていいよ」「昔の男でも好きなタレントでも/ペットってそうじゃん」と、積極的にペット役を引き受ける。

晴れてペットの「モモ」となった彼には、これといった生活上の義務がない。家事はやらなくていいし、性的サービスを提供する必要もない(むしろ全力で拒まれている)。スミレの手料理が大好きだから早めに帰宅しているが、門限もとくに設けられていないようである。ちなみに、ちょっとした食費や交通費も彼女がくれる。実に気ままなペット生活だ。

スミレにとってのメリット

この状況、一見するとスミレの負担が増えただけのように思えるけれど、彼女はモモとの共同生活に安らぎを感じている。なぜなら、モモと出会う以前の彼女には、素の自分になれる時間がなかったからだ。

外に出ればいつでもどこでも超エリート扱い。少し何か言っただけで、めちゃくちゃ気の強い女だとビビられ、泣かれる。交際相手ですら対等には扱ってくれず、劣等感を丸出しにしてくる始末。

しかし、モモの前では、格闘技好きで、ちょっと酒乱で、だけど弱虫なスミレちゃんでいられる。モモのおかげで社会的な「鎧」を脱ぐ時間を持てたことが大きなメリットになっているのだ。

強い女が弱さを見せる相手は、言葉の通じる(そして愛嬌たっぷりの)ペット……強いだけの男はどうやら力不足のようである。

きみはペット』は恋愛マンガなので、ペットと飼い主が末永く仲良く暮らしましたとさ、おしまい、なんてことはなくて、恋愛フラグがちゃんと立つ。「わたしより身長も収入も高い人」しか恋愛対象にならないと思い込んでいるスミレは気づいていないが、モモはかなり早い段階から彼女に好意を寄せており、彼女の心変わりをずっと待っている。

スミレを急かすことなく待ち続けられるのは、単に「待て」の上手なペットだからではなく、彼女への愛があればこそだ。

男と女の等価交換

スミレの人生にある日ふらりと現れたモモだが、実は若手ダンサーとして活動していて、いつか世界レベルの振付師になりたいという夢を持っている。そのことが明かされたとき、まるで不釣り合いに思えたふたりが、案外そうでもないことに気づかされる。ああ、ふたりはエリート記者と気鋭のダンサーなんだ、はじめから特別な人たちだったのだ。そう思うと、スミレが養う女だとか、モモがペットだとかいうことは、どうでもよくなってしまう。

そこが本作のうまいところで、養う女と養われる男が不当なジャッジをされないように「養われる男に金で買えない才能があること」をはっきりと描いているのである。養う女の経済力と養われる男の才能が「等価交換に値する」と明らかにされる過程において、養う/養われるの非対称性および権力性が無効化され、養う女と養われる男は、美しき一組のカップルへと変貌を遂げるのだ。

一見悲惨なDV物語に見える『自虐の詩』

ちなみに、一見すると悲惨なDV物語であるかに見える業田良家『自虐の詩』も、構造的には『きみはペット』とよく似ている。

業田良家『自虐の詩 上』(バンブーコミックス 4コマセレクション)

ギャンブル狂いで乱暴者の「葉山イサオ」は、生活能力ゼロの金食い虫で、ちょっとでも気にくわないことがあればすぐにちゃぶ台をひっくり返す男。一方の「森田幸江」は、ほとんど働かないイサオをパートで養い、家に帰れば家事全般を引き受け、ついでに酔ったイサオの面倒をみるなど、イサオ中心の生活を送る女だ。

幸江がなぜここまでイサオに尽くすのか、最初の時点ではよくわからない。「仕事もしないでテーブルばっかしひっくり返してサ もう別れちまえばいいのに」……隣の部屋に住んでいるおばちゃんですら、なんでふたりが一緒にいるのかよくわからないでいる。

しかし、物語がラストに近づき、ふたりのなれそめが描かれるなかで、その謎は氷解する。クズ男だと思っていたイサオが、違法薬物に手を出すほど荒れていた幸江を愛の力によって救いだし、貧しくとも健康的な生活へと導いた過去が明かされるからだ。

彼は、ただの女から搾取するだけの男じゃなかったどころか、惚れた女の人生を変えた男だったのだ。これが『自虐の詩』における「養われる男に金で買えない才能があること」の中身である。つまり彼らもまた、彼らなりの価値観にしたがって経済力と才能の等価交換を行ったのだ。

もちろん、常識的に考えれば、いくら過去に素晴らしい行いをしたとはいえ、惚れた女をパートで働かせギャンブルばっかりしている男なんて、別れてしまった方がいいし、幸江ひとりで稼いで食って生きていった方が楽であるようにも思える。しかし、この先も彼女がイサオを手放すことはないだろう。どれだけ理不尽でコスパが悪くても、幸江はイサオのそばにいて、彼を支えたいのだ……かつて自分がそうしてもらったように。