「イベルメクチン神話」の始まり

新型コロナの重症患者を中心に対応してきた、埼玉医科大学総合医療センターの岡秀昭教授は、感染拡大の初期からデルタ株の5波まで(2021年9月末)の時期が、最も厳しかったと語る。

「有効な治療薬がない、ワクチンの開発も追いつかない。高齢者だけでなく、働き盛りの40代から50代の患者も次々と重症化する。この状況は世界共通で、我々感染症の医師にとっては試練の日々でした。緊急の打開策だったのが、既存薬を新型コロナに応用する“ドラッグ・リポジショニング”です。イベルメクチンもその一つでした」

埼玉医科大学総合医療センターの岡秀昭教授
撮影=福寺美樹
埼玉医科大学総合医療センターの岡秀昭教授

イベルメクチンは、寄生虫や疥癬(※)など感染症の治療薬として世界中で使用されている。中でもアフリカや南米に蔓延していた、失明を引き起こすオンコセルカ症の撲滅に大きな貢献を果たした。この実績が評価され、イベルメクチンを開発した大村智氏(北里大学特別栄誉教授)は、2015年にノーベル生理学・医学賞を受賞している。

パンデミックの混乱期だった2020年4月、「イベルメクチンで48時間以内に新型コロナウイルスがほぼ死滅した」というオーストラリアの研究が公表され、注目を集めた。この時の“誤解”が、イベルメクチン騒動の始まりだったと岡教授は指摘する。

疥癬かいせん=ダニの一種が、人の皮膚に寄生して起こる、かゆみを伴った感染症

「投与して治った、だから効く」の誤解

「これは試験管内の“基礎研究”の段階で、実際にコロナ患者に投与する“臨床試験”を実施してみないと、治療薬として有効性は判断できません。しかも、この研究で使われたイベルメクチンの濃度は、従来の100倍以上。安全性を考えると、同じ濃度を患者に投与する臨床試験は難しい。専門家なら分かりますが、『イベルメクチンは新型コロナに効く』というイメージだけが、一人歩きしてしまいました」

医薬品として承認されるためには、三段階の厳密な「臨床試験」が必要となる。試験管での研究成果は、その手前の段階に過ぎなかったのだが、「イベルメクチン神話」は、さまざまな思惑が交錯する中で暴走していく。

長尾医師は「300人のコロナ患者にイベルメクチンを投与して治った、だから効く」と公言する。その言葉を信じた人も多いようだが、ここにも誤解が潜んでいるという。

「私が対応した患者の中には、イベルメクチンを服用しても、重症化して入院した人もいました。コロナ患者の大半は、数日のうちに苦しい症状は治ります。臨床試験でイベルメクチンを投与した人とプラセボ(偽薬)に差が出なかったように、イベルメクチンで治ったというのは思い込みではないでしょうか」(岡秀昭教授)

医師の体験談(専門家の意見)は医学のエビデンスレベルでは「低いランク」に位置づけられる。2021年8月の記事〈「イベルメクチンこそ新型コロナの特効薬」を信じてはいけない5つの理由〉で解説しているので、ご参照いただきたい。