「あなたのお母さんは終わり」と言われた

それまでの母と私の関係は、母が私の修行のアシストをしているような感じでした。出家をしたら親子の縁は切る決まりでしたので、出家当日に別れました。配属先が全然別なので、強制的に別のところになってしまいますし、親子の縁を切るというのは素晴らしいことだとされていました。母から「もうここであなたのお母さんは終わり」と言われて、「さようなら」と言って去ってしまいました。

父は家に置いてきました。相変わらず見て見ぬふりです。父がまったく動いてくれずに、ほぼ同じ頃自営業の部門が廃止になり、父は退職しどこかへ行ってしまったんです。出家した1月、富士の総本部に私は送られて、4月までそこにいました。最終的な配属先が決まっていたんですが、ちょうどオウムの身辺がザワザワしていた頃で、私が配属先に異動できなくなって、ずっと富士総本部に足止めされていたんです。母は違う支部に行きまして、そこで働いていました。

1995年3月20日、地下鉄サリン事件の当日

3月20日に地下鉄サリン事件が起きましたが、当時の私はこの事件を知らなかったんです。総本部にいて、テレビ番組を見ることがありませんでしたから。テレビを使うのは、教学用といって勉強用のビデオ再生だけで、そもそもテレビはアンテナに接続されておりませんので、放送を見ることはできませんでした。テレビだけでなく、新聞も見られませんし、ラジオも聴けないような環境でした。一歩も外に出ることは許されませんでしたので、情報源はありません。強制捜査も経験しました。迷彩服を着て武装した警察隊が踏みこんできて、何度も何度も立ち会いました。

大きな男たちがどかどかやってきて、私たちの私物をひっかきまわして確認して、床板まで剥がして、私は指紋も取られたり、写真も撮られたりしましたが、未成年であることをひた隠して黙って従っていました。未成年だとわかると児童相談所に連れて行かれるからということで、私は20歳以上だと言いはっていました。オウムが正しいと思っていましたから、当時は社会のそういう権力は敵だと思っておりました。

そのあとに警察が捜索願の出ているかたや、子どもたちをまた連れて行くという情報が入って、私はその人たちを連れて、出家から戻っていた母の従妹の家に避難したんです。こういう展開で、私はオウムから出ることができました。

【図表1】オウム真理教の変遷の概要