親が新興宗教の信者で判断能力のないうちから巻き込まれていく子どもたち。オウム真理教の宗教2世である、まひろさんは「地下鉄サリン事件が起こった27年前、オウム真理教の教団本部にいました。脱会してからは仕事に奮闘し普通の生活を送れるようになったけれど、今でもときどきオウムの教義に考えを縛られてしまいます」と告白する――。

※本稿は、横道誠(編)『信仰から解放されない子どもたち』(明石書店)の一部を再編集したものです

家宅捜索でエンジンカッターなどを使って第6サティアンの扉をこじ開けて中に入る捜査員=1995年5月16日、山梨・上九一色村)
写真=時事通信フォト
家宅捜索でエンジンカッターなどを使って第6サティアンの扉をこじ開けて中に入る捜査員=1995年5月16日、山梨・上九一色村)

母のいとこがオウムの信者だったことがきっかけ

私はひとりっ子の育ちで、いま40代です。父と母は幼馴染で関東地方の出身です。両親は親族経営の自営業をやっていました。わりと裕福で、私はお嬢さん育ちでした。ですから、ほかの子よりも、あまり世間を知らないような、周りからちやほやされて育ったような幼少時代を送っております。

オウムに入信したのは1988年の小学生のときです。私にオウムを紹介したのは母なんですけれども、その母を入信させたのが、母の従妹いとこです。彼女は「オウム神仙の会」時代からの会員で、母を入会させたというのが、私とオウムのおおもとの出会いなんです。

母の従妹が、私たちの親族を名前だけの会員として、どんどん入信させてしまったんです。オウムの用語で、黒入信と言います。母の従妹の一家は、私が赤ちゃんの頃からずっと遊んでくれていて、母の従妹の旦那さんも深い関係だったので、私は姉や兄のような存在だと思っていました。そんな大切な人たちをオウムに取られてしまったと感じて、私はすごく憤ってしまい、毎晩泣いていました。そうして次第に、母の従妹を通じてどんどん教義を知って、母も私もその方向に進んでしまいました。大好きな母の従妹たちに会うには、オウムに行くしかないということで、私はそういうふうに気持ちを切りかえていきました。

ヨガを始めた母はカルチャースクール感覚だった

母に関しては、母の従妹の勧誘ノルマに付き合ったというか、「神様がいるから」と言われたそうですが、当時のその口ぶりから本気で信じて入ったわけではないと思います。母はせっかく入ったのだから、ヨガやアーサナなどの、オウムの最初の頃にやられていた運動や呼吸法を習いはじめました。カルチャースクール程度にしか思っていなかったんです。それを見ていた私が母の真似をして、「私もできるよ」とやって見せて、母にほめられたかった。始まりはその程度のものなんです。入るのも簡単で、母が、母の分と私の分の会費を払っただけです。

母の従妹は熱心な信者で在家成就をしました。オウムの信者には2種類あって、出家信者は、俗世を捨ててすべてをオウムに捧げる内弟子です。他方、在家信者は出家せず一般社会で生活しながら修行する信者です。その在家の状態で、長期または短期の修行に入り、教祖が認めたステージに達することを在家成就者と言います。そして、ホーリーネーム(麻原彰晃からもらうオウム組織内の名称)ももらっていました。そうして母の従妹たちの家族は出家をしました。それがちょうど、オウムが国政選挙に出る前の時期、1989年くらいだったと思います。

中学生でイニシエーションを強要される理不尽

私は母の従妹の家族を見習っていましたので、自分もオウム中心の生活になってしまいまして、小学校の後半ぐらいから、学業よりもオウムが優先されていって、中学になると勉強はほぼできないような状態でした。いろんなセミナーに出たり、説法会があったり、集中修行などがあって、それに参加するには長期で休みをとらなくてはいけなかったり、ノルマを達成していかなくてはいけなくて、長時間道場に詰めて、修行をしなくてはいけない状態でした。

父はと言えば、ずっと見て見ぬふりでした。うちの家庭は壊れていて、父は浮気をしていましたし、自分の趣味を優先して、母と私から逃げていました。

オウムの道場に子どもは何人かいましたが、私はおとなたちと同じように修行をしており、短期修行の会で最年少でした。道場に行くと、たくさんの師や、師補と言われるサマナ(オウム真理教の出家修行者)がいますので、その人たちが私たちを監視しています。そして、なんらかのイニシエーションを受けるためには、ノルマの達成が必要でしたので、それらに集中していました。何人もの男性サマナに取り囲まれて「イニシエーションを受ける」と言うまで、その申込書を書くまで絶対逃がしてくれない状態でした。

富士の教団総本部は汚くて嫌でたまらなかった

イニシエーションで代表的なものとは、たとえばシャクティーパットです。これは尊師、麻原彰晃や幹部の上祐史浩さんのエネルギーを入れていただく、額に入れるという秘儀ですけれども、それを受けるためのノルマがありまして。教学システム何級まで合格とか、なんとかの修行何十時間、何百時間達成とか、そういうものがありまして、それをすべてクリアするために、私は学校のあとも土日も徹夜で全部費やすような生活でした。

私たちは関東地方に住んでいたので、青山の道場や、亀戸の道場や、杉並の道場に、そのとき行かなくてはいけない道場に通っていました。富士の総本部にも通っていましたし、上九(山梨県の上九一色村)にも通っていました。富士の総本部は、ネズミがいっぱいいて、寝ているとネズミに顔を蹴られるような汚い場所です。上九は建物が骨組みで、壁がコンクリートで、屋根も鉄板が見えるような倉庫みたいなところに、チェンバーといってアルミのステンレスのような壁があって、個室がいくつもあるような、そして、畳ではなくてウレタンのような絨毯が敷き詰められているような倉庫です。

死を覚悟するような厳しい修行

道場はなにしろ汚い。想像を絶する汚さです。嫌で嫌でたまりませんでした。なぜ逃げなかったのだろうかといまだから思いますが、当時はマインドコントロールを受けていて、上の世界に生まれ変わるには、穢れとかカルマを落とすことが優先されて、私がその上のステージに上がることによって、信仰していない父や家族も救われると教えられていて信じておりました。家族を人質に取られているような状況で、ひたすら努力をしました。

いちばん印象に残っているというか、いまでもトラウマなのが、年末年始などにおこなう集中修行があるんですけれども、その席で私は高熱を出したんです。最終的には水疱瘡だとわかったんですけれども、誰も手当はしてくれず、飲まず食わずで寝ないような修行を、10日間ぶつ続けでやっておりまして、ほんとうに死ぬかなと、死を覚悟するような瞬間が何回もありました。

薬を使ったイニシエーション、覚醒剤のLSDを使ったイニシエーションがあったんですけれども、そのときはそんな薬を使っているものだとは知らないで、それを何回も受けてしまいまして、幻覚を見たり、記憶がなくなったり、暴れまわったり、自分が誰かわからなくなったり、そういう状況に何回も陥りました。それがまだ薬物だと想像さえできない10代前半、そういう子どものときに経験しています。オウムの信者がよく着けていたヘッドギアをかぶって修行したこともあります。強制捜査までに行われていた当時の修行は、ほとんど私はやっております。

オウムの教義を完全に信じてしまい母と共に出家

オウムと言えば、空中浮揚というのがあるじやないですか。よく写真が報道に出ていましたよね。やっぱりその、覚醒剤を使った修行をしたときに、そういう現象が起きたりとかはしました。幻覚を見たりとか、教わっていたことが私は見えてきたのでそれを信じてしまいました。集中修行のときに生きるか死ぬかとか、そういう状態になったときに光を見たりとかもあります。苦しいことを乗り越えたあとの達成感というんですか、すごくハイになったりとかそういう経験をしました。そういうのを体験したら、ますます脱会しにくくなります。教えがほんとうだと思いますから。

中学が終わって高校にはなんとか進学できましたが、やはり学校以外はほぼオウムの修行でした。勉強はほとんどできていなかったので、テストはいつも赤点でした。1995年1月についに出家をしました。その前も何度か出家をしようとしたんですけれども、どうしても私が嫌で逃げていました。財産を寄付して、その代わりにすべての衣食住の面倒を見ていただけるということになりました。

「あなたのお母さんは終わり」と言われた

それまでの母と私の関係は、母が私の修行のアシストをしているような感じでした。出家をしたら親子の縁は切る決まりでしたので、出家当日に別れました。配属先が全然別なので、強制的に別のところになってしまいますし、親子の縁を切るというのは素晴らしいことだとされていました。母から「もうここであなたのお母さんは終わり」と言われて、「さようなら」と言って去ってしまいました。

父は家に置いてきました。相変わらず見て見ぬふりです。父がまったく動いてくれずに、ほぼ同じ頃自営業の部門が廃止になり、父は退職しどこかへ行ってしまったんです。出家した1月、富士の総本部に私は送られて、4月までそこにいました。最終的な配属先が決まっていたんですが、ちょうどオウムの身辺がザワザワしていた頃で、私が配属先に異動できなくなって、ずっと富士総本部に足止めされていたんです。母は違う支部に行きまして、そこで働いていました。

1995年3月20日、地下鉄サリン事件の当日

3月20日に地下鉄サリン事件が起きましたが、当時の私はこの事件を知らなかったんです。総本部にいて、テレビ番組を見ることがありませんでしたから。テレビを使うのは、教学用といって勉強用のビデオ再生だけで、そもそもテレビはアンテナに接続されておりませんので、放送を見ることはできませんでした。テレビだけでなく、新聞も見られませんし、ラジオも聴けないような環境でした。一歩も外に出ることは許されませんでしたので、情報源はありません。強制捜査も経験しました。迷彩服を着て武装した警察隊が踏みこんできて、何度も何度も立ち会いました。

大きな男たちがどかどかやってきて、私たちの私物をひっかきまわして確認して、床板まで剥がして、私は指紋も取られたり、写真も撮られたりしましたが、未成年であることをひた隠して黙って従っていました。未成年だとわかると児童相談所に連れて行かれるからということで、私は20歳以上だと言いはっていました。オウムが正しいと思っていましたから、当時は社会のそういう権力は敵だと思っておりました。

そのあとに警察が捜索願の出ているかたや、子どもたちをまた連れて行くという情報が入って、私はその人たちを連れて、出家から戻っていた母の従妹の家に避難したんです。こういう展開で、私はオウムから出ることができました。

【図表1】オウム真理教の変遷の概要

大ニュースになった強制捜査の後に教団を出られたが…

それで私は社会に戻りました。母の従妹が母に連絡を取ってくれ、私も保護者がいなければ、児童相談所に保護されてしまうから戻ってきてくれと母を説得しました。母も情報がない生活をしていたため、オウムの置かれている立場をわかっていなかったのです。

その後母とふたりで家に戻ったんですけれど、父は家からいなくなっており、帰った家はがらんともぬけの殻で。家には何回も事情聴取に警察が来ていたので、私たちがオウムに入信していたことが近所の人たちにばれてしまって、犯罪者を見るような目で見られて、私たちは追いたてられました。親族からも家を出ていけと追いだされるような形で、私たち、母と私はゼロから、マイナスからの生活をスタートしなくてはいけないような状況になってしまいました。その頃、母は父と離婚しました。

世間は厳しく犯罪者扱いされてオウムに逆戻り

母は働きに出たのですが、働き先にも警察が来てしまって、何度も仕事をクビになったりしてしまったので、生活がほんとうにできなくて、私は高校に通いなおすこともできませんでした。それが1年ほど続いて、やっと周囲が少し助けてくれるようになってきて、私は違う高校に復学したんですけれども、精神がついていけなくて、1年で退学しました。そのときがいちばん苦しくて、もうしゃべることもできないぐらい追いつめられてしまって。もうこの世から消えてしまいたいと、自死も何度か頭をよぎりましたが、家に1年ほどひきこもって耐えました。そのあと、オウムの元信者のかたに助けてもらって、アルバイトを始めたんです。でもどうしても社会に馴染むことができず、私はオウムに戻ってしまったんです。

そのひきこもっていた時期に出家信者たちからも在家信者たちからもコンタクトがあったのが理由です。1999年のことでした。この年の第7の月にハルマゲドンが来ると麻原彰晃は信じていて、私も期待していました。もちろん何も起きませんでしたけれど、起きなくても教義を信じたままでした。カルトを信じて、妄信していた自分がいたんです。麻原は当時も私にとって絶対的な尊師でした。

それでオウムにしばらく在籍していたんですけれども。20歳になって完全に脱会することになりました。オウムがアレフに改称する前後です(のちに「アーレフ」を経て、現在は「Aleph」)。

教団幹部のお嫁さん候補だと言われ逃げ出した

きっかけは、1999年に上祐さんが刑務所を出て、新しくできたアレフが分裂しはじめたんです。その分裂しているさまを見ていて、なんて醜いことをしているんだ、とがっかりしたことです。それに私を拉致しようという噂が出ていたんです。上祐さんのお嫁さん候補にすると、そういう噂が流れていまして。ほかにも拉致された人がいるらしいという噂があって、それがとにかく恐怖で。上祐さんとは、シャクティーパットを受けているぐらいで、お話をしたことはほとんどありません。詳細は私もわからないんですけれども、私をどこかに連れさると、そういう話が出ていたので、とても恐怖があって私は行くのをやめました。

麻原への帰依が解けたのは、30代の初めの頃です。例の母の従妹が、新たな宗教を私たちに勧誘してきたのがきっかけでした。「まだオウムを信じてるの?」とあっけらかんと言われて。「あなたが私たちを入れて、ここまでにしたのに、なんてことを言うんだ」とほんとうに許せなくて。でも、その怒りで麻原のこともどうでもよくなりました。母の従妹には、もう一生会わないと決意しています。

教祖への帰依は辞めたが潜在意識には残っている

オウムに帰依はしなくなりましたが、マインドコントロールが完全に解けたとは思いません。たとえば近々手術をするんですけれども、手術をするということは体を傷つけますので、体のエネルギーの流れが変わって、成就をする道、魂を傷つけると、そういうふうに習ってきました。ですので、「手術をどうですか」とお医者さんから勧められて、「はい」と言えませんでした。もちろん手術というのは大変なことなので、「考えさせてください」という思いもあったのですが、私が最初に頭に浮かんだのはオウムの教義なんです。

それが2年前です。抜けてからちょうど20年経ってもそうなんです。手術に対するその心境を克服するのに、それから2年かかりました。教義が条件反射のように私のなかに残っています。命に関わるようなこととか、病気とかそういうときに、やはりまだ出てきてしまう。悪いことをしているような、ほんとうにこれでいいのか、地獄に落ちるんじゃないだろうかと気分が悪くなります。

ほんとうに尊師の言っていた世界があるんじゃないかという思いと、いまも闘っています。知らないうちにオウムの歌を口ずさんでいたりとか、そういうことがいまだにあります。

オウムが問題化した27年前にカルトを規制していれば…

横道誠(編)『信仰から解放されない子どもたち』(明石書店)
横道誠(編)『信仰から解放されない子どもたち』(明石書店)

2018年に麻原たちに死刑が執行されたとき、通勤電車のなかにいて、速報のニュースをスマホで見ました。いつかこの日が来るのはわかっていました、しかし現実に直面すると涙が出そうになりました。顔を上げて車内を見回したのを覚えています。このなかで彼らの死を悲しんでいるかたはどのくらいいるのだろうと。世間はテロリストたちの死刑執行を喜んでいる。その後に思ったのは、彼らの死を悲しむ己を隠さなくていけないということでした。その数秒間は、心のなかは嵐のようでした。

2022年7月の安倍さんの銃撃事件がほんとうにショックで、容疑者のかたの生い立ちを聞いたときに、崩れおちるような気持ちがしたんです。しかも同年代。オウムが騒ぎになった27年前に、もし国がカルトに対して動いてくれていたら、こんなことにはならなかったんじやないだろうかと。何しろショックで、何か私もできることがないだろうかと思って作ったのが、自分をオウムの2世として発信するSNSのアカウントなんです。オウムの2世の人は探してもなかなか見つからなくて、私がやっぱり発信しないと、人が寄ってきてくれないというか、見つからないんじゃないかと思って、勇気を出して作ったんです。

国が元信者や宗教2世の社会復帰を支援してほしい

教団について思うことは、世間から非難を受けていますけれども、内部で生きている人も生身の人間であって、彼らも社会に戻ることができないような人たちだということを、社会の人に伝えたいと思っています。支援があって、ある程度柔らかく受けとめてもらえないと、彼らは戻ることができない。いつまでもオウムの後継団体は存在しつづけるはずです。戻っていくところを作って、支援が国単位であれば、教団はなくなっていくんじゃないかと私は思っています。