いまのままでも十分幸せと言う妻
妻の美紀は、底抜けにとは言わないが、一緒にいるだけで気持ちが浮き立ってくるような明るい人柄だ。西脇が鬱を患ってからも何度か会っているが、一度として表情を曇らせたことがなかった。夫が鬱を発症し、長期療養に入ったときも、会社を辞めざるを得なくなったときも、恨めしげなことを口にしたことすらない。
「う~ん、わたしの家族はみんなわたしみたいな性格なんですよ。でも、その家族から“あんたは暢気だから”と言われるくらいだから、ちょっと抜けてるのかもしれませんね」
そうは言っても、もう20年近くにもなる。どんなに明るい性格でも、やりきれない思いに駆られたことがないわけがなかった。西脇の病状もさることながら、私はそれだけを心配していた。もしかしたら、美紀が西脇のもとを去る日が来るかもしれないと。
「えーッ、そんなこと、考えたこともなかったんですけど。わたし、そんなふうに見えますか」
見えない。ただ、心配していただけだ。もし、彼女がいなくなってしまったら、西脇はどうなってしまうのかと思って。だが、むしろ逆かな、と美紀は言う。
「鬱と診断されて間もない頃ですね。主人は自分の腿を、拳で何度も何度も叩いてたんです。それこそ痣になるくらい。主人もつらかったんだろうと思います。あのときは自傷行為というか、死を選ぶんじゃないかって心配になって、目を離せない時期もあったけど、通院が必要になったとき、主人は禁煙外来にも通って煙草をやめたんです。自分の意志で物事を決められる人だから、そのうち良くなるだろうと思ったんですよ。そういうところが暢気だと言われるんでしょうね、きっと」
それに――、と言って美紀は言葉の穂を継いだ。
「贅沢はできないし、どちらかと言えば切り詰めなければならないことのほうが多いけど、わたし、いまのままでも十分に幸せなんですよ」
私は西脇を大いに見直した。繊細で、そのせいで鬱になって女房に大変な思いをさせはしたが、この古い友人は、苦労をさせても幸せだと笑える女性を娶ったのだ。
彼は今日も、浅めにソファーに座り、ソファーテーブルの一点を見つめて一日を過ごしているのかもしれない。美紀が家を出るとき、洗わなくてもいいから流しに置いておいてねと言った器も、彼女が帰宅したときにはまだソファーテーブルの上に置かれたままだ。
だが、たったそれだけのことができない夫を、美紀が咎めることはない。
※本編に登場する西脇和久・美紀夫妻は、ご本人の希望により仮名とさせていただきました。
1964年、新潟県長岡市生まれ。神奈川大学法学部卒。英国アストン大学留学。週刊誌記者を経てフリー。96年、第3回小学館ノンフィクション大賞・優秀賞を受賞。主な著書に『残酷な楽園』『都銀暗黒回廊』(ともに小学館)『敵手』(講談社)『世界は仕事で満ちている』(日経BP社)他。