朝食の器を片づけることができない…
彼は浅めにソファーに座り、ソファーテーブルの一点をじっと見つめている。
そこには、食べ終えた朝食の器が置かれていた。空になった器を見つめたまま、彼は、出勤前の妻が言い残した言葉を何度も頭の中で繰り返す。
「洗わなくていいから、食器は流しに置いといてね」
毎朝、決まり文句のように妻はそう言って家を出る。妻が家を出たのは8時前だったのに、気がつくと時刻は10時になり、11時になり、お昼を過ぎる。だが、空になった食器はもう何時間も同じ場所にある。西脇和久は言う。
「頭ではわかっているんですよ。食器を片付けとけばいいんだろ、流しに持って行くだけでいいんだ、片付けなきゃって。でも身体が動かない。いつの間にか時間が経っていて、トイレにも行っているはずなので、そのとき一緒に片付ければいいのに、いつトイレに行ったのかの記憶も曖昧で……、どうしてこんなに簡単なことができないんだろう」
やがて陽が傾き始めると、西脇の中で焦りが生じる。もうすぐ妻の美紀が帰ってくる。それまでに食器を片付けなければ。だが、たったそれだけのことが、西脇にはできない。彼は“鬱”に悩まされていた。それも、もう20年近くも――。
部下を何人も鬱病に追い込んだパワハラ上司
美紀が帰宅しても、西脇は出勤するときと同じ姿勢でソファーに座っている。卓上には朝食の食器もそのまま置かれているが、彼女が夫を咎めるようなことはない。
「あ、全部食べたのね。お昼は食べてないの? じゃあお腹減ったでしょう」
「うん」
こんな会話が、もう10年以上、毎日のように繰り返されている。
「もともと感情を表現するのが得意な人じゃないんですけど、調子がいいときはちょっと笑ったりします。でも悪いときはぜんぜんダメ。話しかければ返事はしてくれますが、どこか上の空というか、心ここにあらずみたいな感じかな」
西脇が鬱病を発症したのは、上司のパワハラが原因だった。勤務していた会社が統合合併することになったが、経営規模の違いから、事実上は吸収に近い合併だ。合併前は支店勤務だったが、西脇は本店勤務になり、そこで合併先の企業から横滑りで来ていた部長が新たな上司になった。
この上司が、なかなかの曲者だったらしい。
あらゆる場面でマウントを取りたがり、事あるごとに西脇ら“吸収”された側の社員を格下に扱った。真面目で几帳面、責任感が強く、頼まれれば嫌と言えない性格――、そういった西脇の性格も禍した。パワハラ上司は、これ見よがしの無理難題を押しつけてきた。結果を出せなければ、容赦のない罵詈雑言を浴びせられる。結果を出しても、いい気になるなと冷たく言うだけで、西脇の苦労をねぎらおうともしなかった。
彼の身体と心が変調をきたすのに、一年もかからなかった。彼だけではなかったらしい。聞けば、それまでにも何人かいたのだそうだ。その上司にいびられ、鬱病を発症した部下たちが。
だが、不思議なもので、組織では、人間味やモラルの欠片もないようなやつが、何故か出世していく。