失敗した人間にはペナルティー、成功した人間には報酬を
日本の社会は、そろそろ自らの「いい加減さ」を自覚して、それぞれの権限と責任の所在と範囲を明確にする必要があります。
そうしないと、責任を取らなくていい上司の役職を、責任を取る制度に変革することには、過去と同じくこれからも誰一人として手をつけることはないでしょう。
どんな組織においても、成員それぞれの権限と責任を明確にして、失敗をした人間にはペナルティーを科す一方で、成功した人間には報酬を与えることです。
コロナはここにくさびを打ち込みました。
成果主義が定着すれば、各メンバーの職務内容と、その目的、権限と責任の範囲が明確にならざるを得ません。
権限と責任の範囲が明確になれば、それが役職や報酬に反映することになります。
新入社員にはほとんど権限も責任もありませんが、課長、部長になれば、そういうわけにはいきません。各プロジェクトについて、プラスかマイナスの報酬と人事が伴います。
たとえば、社長が経営に大失敗した場合は、その責任をとって辞任することは当然のルールとなるでしょう。
権限と責任の明確化とは、そうした覚悟をそれぞれに迫ることを意味します。
これからのすべての日本の会社には、この権限と責任をベースにした「憲法」が必要になるということです。
スペシャリストでなければ生き残れない
「これから仕事をするうえで何を得意とするかが問われる」と述べました。
それぞれが、その道のスペシャリストになる、ということです。
この分野だけは誰にも負けない、と言えるほどのプロフェッショナルになる、と言ってもいいでしょう。
ところが、日本型のトップの人事制度は長らくジェネラリストの育成をもっぱらとしてきました。
とくに国家機関、地方自治体、諸組織の幹部候補は、数年ごとに「営業部から経理部」「経理部から企画部」などと部署や担当業務を替えて、営業力や企画力といったスキルを習得させるほか、社内事情を理解したり社内外の人脈を築いたりさせるのです。
ジェネラリストと言えば聞こえはいいけれど、言い方を換えれば「何もまともにできない」ということです。
さまざまなスキルの習得や業務の経験は少しはできるかもしれませんが、専門的なキャリアは形成しにくいシステムなのです。
ジェネラリストに「得意なこと」が一つだけあるとすれば、「社内のどこに行けば、求める仕事をできる人がいるか」「どのボタンを押せば、どの専門家が現れるか」を知っているということでしょうか。それはそれで会社には必要な能力ですが、他社では通用しません。