※本稿は、島津清彦『元上場企業社長の「禅僧」に、今の時代の悩みをぶつけてみた。心が回復する禅問答』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。
怒りの感情を処理できるようになったワケ
みなさんは、どんなとき、どんなことに怒りを感じますか?
わたしの場合、怒りは年々小さくなってきているので、たとえふだんの生活で突発的なことが起きても、いまはほとんど怒りを感じることはありません。
もちろん、最初からそうだったわけではなく、会社員の頃はよくイライラしたり怒ったりしていた気がします。しかし、禅の修行を続けるなかで、そうした感情が次第になくなっていきました。
そういえば、最近も外を歩いていると、いきなりうしろから歩いてきた中年男性に思い切り肩をぶつけられたことがありました。おまけにものすごい剣幕で怒鳴られた。
でも、そのときも「あ、すいません」といって自らよけて、その人が去っていくのを見つめていました。
正直なところ、むかしのわたしならそんな対応はできなかったでしょう。かつてのわたしは、通勤中に人とぶつかるだけで、そのたびにいちいち怒りを感じていました。
なにか理不尽なことをされたときに、怒りを感じるのは当然だし、怒りの感情は持っていてあたりまえです。なぜなら、怒りは動物が持つ本能的な感情だからです。
攻撃に対して戦うために、まるでハリネズミの針のように怒りの感情が湧き上がるわけです。
「なぜ怒りは存在するのか」に対する老師の答え
でも、知っておきたいのは、同時に怒りは人を傷つけるということです。
怒りは人を傷つけて、争いや戦争のもとにまでなるもの。では、なぜこんな感情が、わざわざ人間に備わっているのでしょうか? 怒りによってわたしたちがいがみ合うのなら、そもそも人間の感情として怒りは必要ないのではないか?
そこで、禅の修行をはじめた頃のわたしは、老師に教えを仰ぎました。
すると、彼は「怒りはただあるだけだ」と答えたのです。
怒りは「ただあるもの」であり、いいも悪いもなく、機能としてあるだけだということです。それを聞いたとき、怒りに対するわたしの「こだわり」が静かに取れていきました。
世の中には、理不尽な出来事がたくさん起こります。確かに、わたしにもニュースなどで悲惨な出来事を見聞きすると、「うーん」と気持ちが沈むことがあります。
でも、怒りの感情がふつふつと掻き立てられるかといえば……、そんなことはないのです。
わたしは、怒りそのものを否定しているわけではありません。怒りは「ただあるもの」であり、人を不必要に傷つけることが多いものだということを知っているだけです。
そして、もうひとついえば、いつ獣に襲われるかもしれない古代人とは違い、わたしたち現代人には、さほど怒りは必要ではないのではないかと考えているのです。