周囲はどう対応したか

私はその夜のうちに男性の先輩記者2人に報告し、今後の対応を相談した。「そんな奴のところに、もう夜回りに行かなくていい。それで情報が取れなくなっても構わない」。2人は即座に言った。当時、この議員は放っておいていいような軽い存在ではなく、新聞社として情報が欲しかったのはよくわかっていたので、私はこの反応がうれしかった。

佐藤 千矢子『オッサンの壁』(講談社現代新書)
佐藤 千矢子『オッサンの壁』(講談社現代新書)

もしも「他の男性記者がいる時に行くようにして、気をつけて取材してはどうか」と言われたら、落胆しただろう。あるいは「担当を外す」と言われたら、当座はほっとしたかもしれないが、責任を感じ、自分を責めて、後々まで思い悩んだかもしれない。

「もう夜回りに行かなくていい」というのは、会社として情報を失う犠牲を払ってでも記者を守ろうとする姿勢がはっきりしている。しかし「気をつけて取材してはどうか」とか「担当を外す」というのは、一見、記者に配慮しているようでいて、情報入手のほうを優先している。この差は大きい。

先輩記者の反応がうれしくて、私は「いえ、明日からも夜回りに行きます。一対一にならないよう、他の記者がいる時に部屋に入るように気をつけます」と言った。その後も普通に夜回りに行き、無事に仕事をこなすことができた。議員も秘書も全く何ごともなかったかのように振る舞っていた。いや、振る舞っていたというよりも、全く気にかけていなかったというほうが近い。罪悪感など微塵も感じていないようだった。

忘れるようにしても、深い傷になっている

座談会で20年以上前のこの話を紹介すると、同席していた男性のスタッフが言った。「セクハラというのは、どうしても防げないことがある。大事なのは、セクハラが起きてしまった後、周囲がどう対応するかなんですね」。そのひと言を聞いた瞬間、自分に予期しなかった反応が起きた。涙が出てきた。「もう忘れていたはずなのに、まさかこんなことが心の傷になっていたなんて……」と思い、戸惑った。先輩記者に深夜に報告して以来、このセクハラ経験を話したのは初めてだったため、自分でも気づかなかったのだ。

こんなふうに自分の気持ちに蓋をし、思い出さないようにしてやり過ごしている女性は多いと思う。ここでセクハラのことを書くにあたり、何人かの女性に話を聞いたが、「彼女も、私と同じように気持ちを封印することで何とか乗り切ってきたのだろう」と感じることが何度もあった。