ブランド住宅地は高台という決まりごと

その知恵の集大成が、ブランド住宅地である。

東京でいえば、赤坂、青山、広尾、六本木、松濤、代官山、高輪、池田山、目白、音羽、本郷などなど全部、所在するのは高台である。

東京都渋谷区の代官山
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またこれらの住宅地は江戸時代には多くの藩邸が構えられていて、それぞれの大名たちが、高台の藩邸から江戸を睥睨していたさまを感じることができるのだ。

いっぽう商人たちは、物資が行き交う場所の近くに住むのは必然であった。東京でいえば品川から新橋、日本橋にかけては、海や川を利用して運ばれてくる多くの物資を荷受けするために河岸ができ、多くの商人が職場に近い場所で家屋を構えた。

だがそれらの家屋は決して豪壮なものではなく、むしろ荷揚げした商品を保管する蔵、倉庫であったり、商品を売るお店であったりした。後に三越となる越後屋が店を構えたのがまさに江戸の日本橋である。

山の手、下町と称されるように、権力を持ち裕福な人たちは高台に家を構えてリスクに対する耐性を保持し、商いをして日々の銭を稼ぐ商人たちは、災害のリスクと向かい合いながらも下町に住む、この構造こそが街の基本なのである。

明治時代になって、大名がいなくなり、大名屋敷の跡に好んで住んだのが明治政府の政治家や役人たちである。また三井や三菱といった財閥が財を成し、山の手地区を買い、役員たちが居を構えることになる。

富を得、社会的地位が上昇したから、彼らはかつての権力者、武士が住んだ憧れの高台に移ることができたのである。

津波、液状化…湾岸エリアが内包する数多くのリスク

東京都文京区本駒込六丁目に大和郷と呼ばれる一角がある。現在は東京都が管理する庭園となっている六義園があるところだ。六義園は徳川第五代将軍徳川綱吉の側用人柳沢吉保がこの土地を与えられ、小石川後楽園と並ぶ江戸の二大庭園として整備したものだ。

またこの周辺には加賀藩前田家の藩邸などもあった。現在の本郷にある東京大学赤門がそのなごりである。

江戸時代が終わり明治時代の1877年、三菱財閥の総帥岩崎弥太郎が六義園や周辺の土地を買い受け、三菱財閥の役員の居宅として再整備した。1区画が150坪から300坪。その後も加藤高明、若槻礼次郎、幣原喜重郎など代々の総理大臣が住み、現在に至っている。

この付近は高台にあって地盤が堅固であり、また彼らの勤務地である丸の内に近いということもあり、三菱財閥にとって格好の居住地だったのである。

現代は、建築技術の発達と土地利用制限の緩和で東京でも湾岸エリアに大量の超高層マンションが建ち並ぶようになった。

だが湾岸エリアは埋め立て地であり、大地震の際には建物は大丈夫でも土地が液状化する、直下型地震の場合には東京湾で津波が押し寄せる、地震で橋が利用できなくなれば陸の孤島化する、など数多くのリスクを内包している土地なのである。

土地は、大きな地殻変動でも生じない限り、無限に存続していくが、建物には寿命がある。経年とともに建物は劣化していくことを考えるならば、湾岸エリアに展開するタワーマンションをはじめとした建築物の価値は、年々劣化していく。

そのいっぽうで土地自体は将来にわたって地震や津波などの大きなリスクを内包しているものとなる。長いタイムスパンで見た場合、どちらの不動産により価値があるかは自明であろう。