なぜ哲学者たちは孤独を愛したのか

たとえば、ドイツの哲学者ショーペンハウアーは次のようにいっています。

「人間は孤独でいるかぎり、かれ自身であり得るのだ。だから孤独を愛さない人間は、自由を愛さない人間にほかならぬ」

あるいは、スイスの哲学者ヒルティは、「ある程度孤独を愛することは、静かな精神の発展のためにも、またおよそ真実の幸福のためにも、絶対に必要である」といっています。かのニーチェも、「おお、孤独よ! あなたは私のふるさとだ! 孤独よ!」と孤独を讃えているのです。

共通しているのは、孤独を愛することの必要性と、それこそが真理を追求することになるという点です。

孤独をどう受け止めるかで人生は変わる

そういう孤独のプラスの側面をとらえて、孤高という言葉を遣う人もいます。孤高とは、超然とした態度で理想を追い求めることです。

たしかに、これは孤独の理想的な側面を表現し得ているように思えます。しかし、誰もがそんなに高尚な態度で日常を過ごすことができるわけではないでしょう。そこで私は孤高などといわずとも、ポジティブな孤独といえばいいのではないかと思っています。

孤独にもネガティブな側面とポジティブな側面があると思うのです。ネガティブな側面は、私たちが一般に考えているように、寂しい感覚にとらわれ、内にこもってしまうような態度です。

それに対して、ポジティブな側面というのは、あえて一人になることで、物事に集中し、一人の時間を楽しむことです。

これからは人生100年時代が到来するといいます。その長い人生の過程で、一人で過ごす時間も必然的に多くなることと思います。そうしたとき、孤独をポジティブにとらえられる人と、そうでない人とでは、人生の密度が変わってくるように思うのです。

もし孤独だなと感じたら、何かに集中すればいいのです。要は自分一人の時間を、ポジティブなものに転換すればいいのです。

考えてみれば、自分の時間がとれるなんてすばらしいことです。私たちの時間は常に誰かが利用しようと虎視眈々と狙っています。詐欺や押し売りまがいのセールスに捧げる時間は言語道断ですが、会社に捧げる時間や家族に捧げる時間まで、それは時に私たちの意に反して奪われてしまうものです。ですから、孤独だなと感じたら、逆にラッキーだと思うくらいがいいと思います。やっと自分の時間が持てると。そうしてコロナ禍の孤独を力強く乗り切っていきましょう。

小川 仁志(おがわ・ひとし)
山口大学国際総合科学部教授

京都府生まれ。京都大学法学部卒業。名古屋市立大学大学院博士後期課程修了。伊藤忠商事勤務、フリーターの経歴を持つ。市民のための「哲学カフェ」を主宰。