不安を取り除くには

キルケゴールは、人間が抱く不安には段階があるといいます。

最初の段階は「精神喪失の不安」です。つまり、精神を持ち備えていることを忘れ、虚心の状態に陥ることを指します。いわば不安をごまかしているような状態なのでしょう。

その次に「運命に対して不安を抱くギリシア的異教徒の立場での不安」を挙げています。

キルケゴールはあくまでキリスト教徒としての立場から論じているので、そこのところを考慮して解釈しないと分かりにくいのですが、つまり運命に対して負い目を感じる個人が、自分の自由と責任に目を向けることで抱く不安ということです。

そうして罪の自覚に到達したキリスト教的自覚の段階へと進んでいきます。「罪に対する不安」です。そこから人は信仰を求めるようになるのです。神の愛を信じて、救済を求めるということです。これがもとになって、最後の「信仰と結びついている不安」の段階へと至ります。ここまできてようやく、人は信仰の反復を持続し、不安を克服していけるようになるというわけです。

窓辺で頬杖をつき、考え込む女性
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そう言われると、信仰を抱かない限り不安は取り除けないかのように聞こえますが、私は必ずしもそうではないと思っています。要は何か信じられるものがあればいいのです。

確信を持っている人は不安を抱きません。たとえば、試験などでも、絶対に合格すると確信していれば不安など抱きようもないでしょう。これは不安を解消する一つのヒントになるように思います。

不安を消す究極の手段

このキルケゴールの不安の議論を参考にして、後に二十世紀ドイツのハイデガーも不安について論じています。

ハイデガーもまた、この世にポンと投げ出され、自由に選択をしていかなければならない人間存在の心情を不安と位置づけています。ただ、キルケゴールと異なるのは、自由のめまいの根拠が、自分の負うべき責任にあるのではなく、むしろ逆に自分の中にはないとしている点です。

何をやっていいのか不安だけど、その不安の根拠が自分にあるなら、まだなんとかなります。でもそれが、自分ではどうすることもできないものだとすると、不安の解消はより難しいものになってきますよね。そこでハイデガーは、死を意識し、覚悟して生きることで不安が解消されると訴えるのです。

これは究極の不安の解消法であるように思います。自分はいつか死んでしまうという事実だけは絶対のものです。そのことを意識すると、たしかにあれこれ不安に思っているのがもったいなく感じられるのではないでしょうか。少なくとも私はそうです。もうやるしかないわけですから。