心の隙間を別の興味関心で埋めてしまう手も

とはいえ、死に急き立てられるように生きるというのでは、いくら不安から解放されたとしても、心安らかに過ごすことはできません。そこで提案したいのが、「埋め合わせる」という方法です。

小川仁志『幸福論3.0 価値観衝突時代の生き方を考える』(方丈社)
小川仁志『幸福論3.0 価値観衝突時代の生き方を考える』(方丈社)

キルケゴールのいう信仰も、ハイデガーのいう死も、いずれも動揺する心を大いなるものにすがらせて、揺れないようにするというアプローチだといえます。それとは違うものとして、私は心を別のもので埋め合わせることを考えてみたいのです。

なぜなら、不安になるということは、心が動揺しているといえると同時に、心に不安というものをはびこらせる隙をつくっているともいえるように思うからです。したがって、もしその隙間を埋めつくすことができれば、不安など生じようもないのではないでしょうか。

具体的には、別のことを考えるということです。楽しいことや興奮するようなことがあればベストですが、必ずしもそうでなくてもいいと思います。

要は何か別のことで頭がいっぱいになればいいのです。ただし、それ自体が不安の種になってしまっては元も子もありませんが。

たとえば、新しい仕事を前にして不安になるとすれば、そのことを考えなくてすむように、心の隙間に別の興味関心を強制的に持ち込むのです。

人はそれを気晴らしと呼ぶこともあります。結局は同じことかもしれませんが、私はこれを心の隙間を埋める不安の解消法として、積極的にノウハウ化してはどうかと思っています。しかも哲学的に。ぜひ試してみてください。

人がたくさんいるから「一人」を感じる

コロナ禍で自粛生活を強いられたり、必然的に人との付き合いが減ったという人は多いと思います。私の勤務する大学でも、新入生がそのせいで孤独を感じているということが問題になりました。

私たちの日常を悩ませる原因の一つは、間違いなく孤独です。孤独以外の問題は一人で解決することが可能です。でも、孤独だけはそういうわけにはいかないのです。そこがやっかいなところです。

なぜなら、孤独というのは一人で寂しいと思う感覚ですから、誰かほかの人の協力なくしては解決することができないのです。少なくとも私たちはそう思っています。でも、本当にそうなのでしょうか?

孤独とは、一人で寂しいと思う感覚だと指摘しました。それは一般的にそう思われているだろうということです。ただ、哲学者たちは必ずしもそういう定義はしていません。たとえば孤独についてもっとも鋭い議論を展開していると思われる日本の哲学者三木清は、次のように表現しています。「孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのでなく、大勢の人間の『間』にあるのである」と。