コロナ禍がもたらした生活の大きな変化により、どうにもならない不安を抱える人は多いのではないでしょうか。曹洞宗徳雄山建功寺住職であり、『心配事の9割は起こらない』『上手な心の守り方』(三笠書房)を著書にもつ枡野俊明さんに不安の解消方法を教えてもらいます。

※本稿は、枡野俊明『人生は凸凹だからおもしろい 逆境を乗り越えるための「禅」の作法』(光文社新書)の一部を再編集したものです。

笑顔の日本人女性
※写真はイメージです(写真=iStock.com/Nicolas McComber)

どうにもならないことは、無頓着でいい

人は誰でも不安に駆られたり、悩みに押し潰されそうになったりすることがあるはずです。不安も悩みも、いってみれば、生きている証ですから、生きているかぎり、それらがなくなることはありません。

ただし、どうでもいい不安や悩みに振りまわされるのはつまらないことです。不安については、禅にこんなエピソードがあります。禅宗の始祖である達磨大師と二祖となった慧可和尚に関するものです。

達磨大師のもとにやってきた慧可がこう尋ねます。

「わたしはこれまで仏典を学び、修行もしてきましたが、どうしても不安を断ち切ることができません。どうか、わたしの不安をとり除き、安心を与えてください」

達磨大師はこう応じます。

「それなら、おまえがいう“不安な心”とやらをここにもっておいで。そうしたら、おまえを安心させてやろう」

慧可は必死になって不安な心を探します。しかし、いくら探しても見つかりません。慧可は再び達磨大師のもとに赴いてそのことを告げます。

「不安な心を探したのですが、どこにも見つかりません」

その慧可に達磨大師はこういいます。

「ほら、おまえの心を安心させてやった」

最後の言葉で達磨大師のいわんとしたのはこういうことです。

いくら探しても見つからないのは、もともと不安などというものには実体がないからだ。自分の心が勝手につくり出しているに過ぎないのである。そのことに、つまり、見つからないことに、実体がないことに気づいたら、すなわち、それが安心なのだ。

これは「達磨安心」という公案のもとになっているエピソードですが、不安や悩みの「正体」を的確にいいあてているといっていいでしょう。不安も悩みも、じつは自分の心がつくり出しているのです。