「不安」は不確実な未来だと自覚しよう

不安を抱くのは将来、未来に対してです。

「このご時世ではいつまで仕事がつづけられるかわからない。家族のいまの生活を維持していけるだろうか?」
「いずれ親の介護の問題が起きてくるだろう。きょうだい間で押しつけ合いになったりしたらどうしよう」
「子どもが引っ込み思案で心配。このままで社会生活に適応できるのか?」

いずれも先のことを見越して、不安になっています。しかし、将来どうなるか、未来に何が起きるかは、誰にもわからないのです。不確実性のなかにあるのが将来、未来です。そのわからないことに対して、手の打ちようがあるでしょうか。何かできることがありますか。

ありません。わからないことは、いくら不安を感じようが、悩もうが、どうしようもない。どうにもならないのです。

禅はこう教えます。

「どうにもならないことは放っておきなさい」

そう、どうにもならないことには頓着しない、無頓着でいるのがいちばんいいのです。頓着することで、自分が不安をつくり出してしまう。仕事がつづけられなくなった自分を想像して、親の介護をめぐっていがみ合っているきょうだい間を思って、社会に適応できなくなった子どもに頓着して……不安になるわけでしょう。

不安は想像の産物、思いの産物、頓着の産物です。そこに実体はありません。いい替えれば、現実にはなっていないのです。そして、人が何かできるのは、いま、目の前にある、現実に対してだけです。

「いま」にこだわる大切さ

「即今、当処、自己」

この禅語を知ってください。たったいま、その瞬間に、自分がいるその場所で、自分自身ができることを精いっぱいやっていく、そのことが大切である、という意味です。

たとえば、仕事をつづけられなくなった自分を想像するのではなく、「いま」自分がやるべき仕事に全力でとり組む、いがみ合うきょうだい間を思うのではなく、「いま」親の介護についてきょうだい間で話し合うことを提案する、子どもの将来に頓着するのではなく、「いま」子どもを誘っていっしょに外の世界(世間)に触れる……などなど、できることはいろいろあるはずです。

こんな言葉もあります。

「人はきのうにこだわり、あすを夢みて、きょうを忘れる」

過去にとらわれたり、未来に頓着したりするから、いまが疎かになるのです。できること、やるべきことは、いまにしかないのに、そのことに全力を注げなくなる。ひたすら注力すべきはいま、いましかありません。

将来、未来は不確実、不透明ですが、それがどのようなものであっても、常に「いまを精いっぱい」で臨んでいれば、怖いものなし。そこに、楽しさも、おもしろさも、必ず、見出すことができます。