※本稿は、枡野俊明『人生は凸凹だからおもしろい 逆境を乗り越えるための「禅」の作法』(光文社新書)の一部を再編集したものです。
どうにもならないことは、無頓着でいい
人は誰でも不安に駆られたり、悩みに押し潰されそうになったりすることがあるはずです。不安も悩みも、いってみれば、生きている証ですから、生きているかぎり、それらがなくなることはありません。
ただし、どうでもいい不安や悩みに振りまわされるのはつまらないことです。不安については、禅にこんなエピソードがあります。禅宗の始祖である達磨大師と二祖となった慧可和尚に関するものです。
達磨大師のもとにやってきた慧可がこう尋ねます。
「わたしはこれまで仏典を学び、修行もしてきましたが、どうしても不安を断ち切ることができません。どうか、わたしの不安をとり除き、安心を与えてください」
達磨大師はこう応じます。
「それなら、おまえがいう“不安な心”とやらをここにもっておいで。そうしたら、おまえを安心させてやろう」
慧可は必死になって不安な心を探します。しかし、いくら探しても見つかりません。慧可は再び達磨大師のもとに赴いてそのことを告げます。
「不安な心を探したのですが、どこにも見つかりません」
その慧可に達磨大師はこういいます。
「ほら、おまえの心を安心させてやった」
最後の言葉で達磨大師のいわんとしたのはこういうことです。
いくら探しても見つからないのは、もともと不安などというものには実体がないからだ。自分の心が勝手につくり出しているに過ぎないのである。そのことに、つまり、見つからないことに、実体がないことに気づいたら、すなわち、それが安心なのだ。
これは「達磨安心」という公案のもとになっているエピソードですが、不安や悩みの「正体」を的確にいいあてているといっていいでしょう。不安も悩みも、じつは自分の心がつくり出しているのです。
「不安」は不確実な未来だと自覚しよう
不安を抱くのは将来、未来に対してです。
「このご時世ではいつまで仕事がつづけられるかわからない。家族のいまの生活を維持していけるだろうか?」
「いずれ親の介護の問題が起きてくるだろう。きょうだい間で押しつけ合いになったりしたらどうしよう」
「子どもが引っ込み思案で心配。このままで社会生活に適応できるのか?」
いずれも先のことを見越して、不安になっています。しかし、将来どうなるか、未来に何が起きるかは、誰にもわからないのです。不確実性のなかにあるのが将来、未来です。そのわからないことに対して、手の打ちようがあるでしょうか。何かできることがありますか。
ありません。わからないことは、いくら不安を感じようが、悩もうが、どうしようもない。どうにもならないのです。
禅はこう教えます。
「どうにもならないことは放っておきなさい」
そう、どうにもならないことには頓着しない、無頓着でいるのがいちばんいいのです。頓着することで、自分が不安をつくり出してしまう。仕事がつづけられなくなった自分を想像して、親の介護をめぐっていがみ合っているきょうだい間を思って、社会に適応できなくなった子どもに頓着して……不安になるわけでしょう。
不安は想像の産物、思いの産物、頓着の産物です。そこに実体はありません。いい替えれば、現実にはなっていないのです。そして、人が何かできるのは、いま、目の前にある、現実に対してだけです。
「いま」にこだわる大切さ
「即今、当処、自己」
この禅語を知ってください。たったいま、その瞬間に、自分がいるその場所で、自分自身ができることを精いっぱいやっていく、そのことが大切である、という意味です。
たとえば、仕事をつづけられなくなった自分を想像するのではなく、「いま」自分がやるべき仕事に全力でとり組む、いがみ合うきょうだい間を思うのではなく、「いま」親の介護についてきょうだい間で話し合うことを提案する、子どもの将来に頓着するのではなく、「いま」子どもを誘っていっしょに外の世界(世間)に触れる……などなど、できることはいろいろあるはずです。
こんな言葉もあります。
「人はきのうにこだわり、あすを夢みて、きょうを忘れる」
過去にとらわれたり、未来に頓着したりするから、いまが疎かになるのです。できること、やるべきことは、いまにしかないのに、そのことに全力を注げなくなる。ひたすら注力すべきはいま、いましかありません。
将来、未来は不確実、不透明ですが、それがどのようなものであっても、常に「いまを精いっぱい」で臨んでいれば、怖いものなし。そこに、楽しさも、おもしろさも、必ず、見出すことができます。
おなかから声を出そう
わたしは毎朝、四時半には起きます。それからすべての窓を開け放って各部屋の空気を入れ換え、寺の門を開けます。その後、朝のお勤めになるわけですが、その際の読経が「健康法」になっているのではないか、と思っています。
読経ではおなか(丹田=おへその下、約七・五センチ)から声を出します。そうしないとよく通る声にはならないのです。おなかから声を出すには姿勢を正しくしなければなりません。
腰(骨盤)を立て、背骨を真っ直ぐ伸ばす。少しそっくり返るような感覚がするかもしれませんが、それが頭のてっぺんと尾てい骨が一直線上に位置している正しい姿勢なのです。読経のときは正座ですが、足を結跏趺坐というかたちに組んでおこなう坐禅でも、上半身の姿勢はまったく同じです。
前屈みの姿勢でいると、内臓が圧迫されて負担が大きくなります。内臓にいちばん負担がかからないのが正しい姿勢です。
声もよく響きます。そのときの呼吸は深く、ゆっくりしたものになっています。酸素が十分にとり込まれる呼吸です。その結果、全身の血のめぐりがよくなる。おなかから大きな声を出すと、身体があたたかくなってくるのはそのためです。
血流のよさは健康であるために欠かせない条件でしょう。読経が健康法になっている所以がそこにあります。
「声だし習慣」は健康状態のバロメーターになる
一般的な日常生活とお経は縁がないと思われているかもしれませんが、朝、仏壇の前で『般若心経』をあげているという人は、案外、少なくないのです。『般若心経』は二六〇字余りの短いお経ですから、生活にとり入れるのもそれほど難しいことではないと思うのですが、いかがでしょうか。
もちろん、お経でなくてもかまいません。おなかから声を出す習慣をもつことは、健康上とてもよいことだと思います。気に入った詩や文章の一節を音読する、その日のスケジュールを声に出して確認する、歌をうたう……。何か自分に合ったものを見つけたらいかがでしょう。
声を出すことを習慣にしていると、それがその日の健康状態を知るバロメーターになります。わたしの場合がまさにそうなのですが、日によって声の出方が違うのです。体調がいいときは部屋中に響くような声が出るのに対して、体調が思わしくないときはくぐもったような声になるのです。
体調がわかれば、その日の行動調整ができます。
「きょうは調子がいいから、少々、がんばっても大丈夫だな」
「体調がイマイチだから無理をしないように心がけよう」
といった具合。体調に合わせた動き方をすることで、大きく健康を損なうことがなくなります。
今日からできる「声だし習慣」入門編
「朝、声を出す習慣ね。たしかにいいと思うが、ちょっとハードルが高い気がする」
そんな人もいるでしょう。「入門編」もあります。手始めに大きな声で挨拶することを家族間の朝のルールにするのです。かつての日本では祖父母、両親、子どもたちという三世代が同じ家に暮らすというのがふつうでした。
その時代の朝は、「おはようございます!」「おはよう!」という元気な声が飛び交っていたものです。挨拶はしつけの基本中の基本だったからです。しかし、時代を経たいま、核家族化が進み、しつけは蔑ろにされ、家族間でも挨拶を交わさない、という家庭が増えているように感じます。
かつての姿をとり戻すべきでしょう。家族間に新しいルールをつくることで、家庭の空気は変わります。慣れ親しんで(馴れ合って)いるゆえにどこか停滞した空気感に、清々しい風が吹き込みます。