ベテランを前線で消耗し「教官役がいない」

【大木】パイロットも、予科練的な養成法では不十分なところがありましたね。

【戸髙】予科練教育がなぜ後手に回ったかといえば、日本の海軍は、基本的に戦争開始時の兵力のまま終戦までがんばる、という短期決戦計画だったからです。だから戦争が始まると、教育はしない。日露戦争のときも、戦争が始まった途端に海軍大学校を閉め、秋山真之(*2)さんなどの教官連中を全員艦隊に突っ込み、終戦まで最初の兵力で戦いました。

当時はそれで良かったわけですが、第一次大戦後は、まさに国家総力戦となりました。ところが生産しつつ戦う、教育しつつ戦うスタイルが、日本ではなかなか馴染まなかった。

大井篤(*3)さんが人事で文句を言っていたのは、「真珠湾攻撃から帰ったパイロットのベテランは、教官・教員に回してくれないと、次の生徒を教育できない」ということでした。ところが、機動部隊は教育どころではないと言い、どんどんベテランは消耗し、教育する人間を残しませんでした。

戦後に民間航空で教官になった人も

【大木】ミッドウェイ海戦への批判としてよく言われるのは、MI作戦(ミッドウェイ島の攻略、アメリカ空母部隊撃滅を目的とした作戦)の前に人事異動を行い、かなりのベテランパイロットを教官に回したことです。「前線航空隊の術力を低下させるとはなんたることか」と。しかし、あれをしないと後続のパイロットが教育できませんでした。

戸高一成、大木毅『帝国軍人 公文書、私文書、オーラルヒストリーからみる』(KADOKAWA)
戸高一成、大木毅『帝国軍人 公文書、私文書、オーラルヒストリーからみる』(KADOKAWA)

【戸髙】そうなんです。教官・教員にするベテランパイロットの絶対数を必ず差し引かないといけなかったのに、もう万事やむを得ないと使いきってしまった。そして教育が疎かになった。予科練で人は取るけれど教育ができない、という悪循環に陥っていたのです。

【大木】私が直接あった予科練出身者で印象が強い人に、大多和達也(*4)さんがいます。戦後は航空会社に勤務していました。覚えているのは、「羽田に来てくれ」というので伺うと、ちょうどフライトシミュレーターで教官をしていたことです。「今、学生さんをフライトシミュレーターに乗せて千歳に降ろすところだ」と言っていたのが印象的でした。

【戸髙】教育では、日航にいた藤田怡与蔵(*5)さんを思い出します。藤田さんは士官搭乗員で、彼のように最後まで現場で飛ばされた人は珍しい。真珠湾にも行き、戦争が終わる頃も第一線で使われていました。もしかすると上官受けが悪かったのかもしれません。

(*1)中島知久平 1884~1949年。海軍軍人・実業家。海軍機関大尉。海軍機関学校15期。横須賀工厰造兵部委員など。1917年に予備役に編入されたのち、中島飛行機株式会社を創立。1930年の初当選以降、1945年まで衆議院議員。鉄道大臣、軍需大臣、商工大臣等を歴任。戦後、A級戦犯容疑者となるも、1947年に戦犯指定から解除される。
(*2)秋山真之 1868~1918年。海軍中将。海兵17期。海軍大学校教官、連合艦隊参謀、軍令部参謀、海軍省軍務局長などを務める。日露戦争の海軍作戦を立案した人物として知られる。著書に『海軍基本戦術』、『海軍応用戦術/海軍戦務』(いずれも中公文庫、2019年)がある。
(*3)大井 篤 1902年~1994年。海軍大佐。海兵五一期。軍令部第一部勤務。海上護衛参謀など。戦後、GHQ歴史課勤務。『海上護衛戦』(角川文庫、2014年)など著書多数。
(*4)大多和達也 1919年生まれ、没年未確認。海軍中尉。1934年、第五期予科練習生として、海軍横須賀航空隊に入隊。空母「蒼龍」、「隼鷹」乗組、海軍横須賀航空隊勤務など。戦後、海上自衛隊に入隊。退官後、全日空に入社。著書に『予科練一代』(光人社、1978年)。
(*5)藤田怡与蔵 1917~2006年。海軍少佐。海兵六六期。空母「蒼龍」、「飛鷹」乗組、第三〇一航空隊飛行隊長、戦闘第四〇二飛行隊長など。戦後、日本航空に入り、機長を務める。

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