最初に配属されたのが資金債券部。日本生命は保険料などの巨額の資産を有価証券にし、利回りを出すために運用する機関投資家だが、学校プール債券という公共投資に近い商品を担当することになった。バブル経済の中、地道な実務から始められたのは結果的によかったが、ダイナミックな投資をしている先輩たちに追いつきたいという意欲も。そこで証券の勉強を自主的に始め、4年目からは留学公募制度によってUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)でMBA取得のために学ぶことに。ファイナンスの資格を次々に取得し運用のプロの道を歩むのかと思いきや、留学後に配属されたのは、なんと人事部だった。

キャリアを築いてきた大澤晶子さん

「勉強してきたことはいったん捨ててくれと(笑)。そこで求められたのは、総合職で入った女性が長く活躍できるようにすることでした」

このときも予想外の異動に落ち込みつつ、厚生労働省の村木厚子さん(元事務次官)を講師に招き、女性社員向けの社内研修を企画した。まだキャリア女性の手本となる人が少なかった時代、村木さんが語ったのは、キャリアを長期的に見ることの大切さ。10年間でいくつかの部署を経験し、仕事の幅を思い切り広げるべきだということだった。

「今は“点”にしか見えないことが“線”になり、いつか大きな“面”になる。必ずそういうときが来るから、思い切りチャレンジして!」というメッセージに自分も励まされた。

「キャリアの方向性を見失っていたけれど、幅を広げるためにできることをやろうと思いました。村木さんの言葉があったから今があるというくらい心機一転した瞬間ですね」

20年後の今も現役のシステム基盤を作った

キャリアのビジョンは見えてきたが、その後、証券管理部で主任から課長へとステップアップする段階では、「管理職失格」と厳しく指摘されたことも。40人ほどがいるその部署では、事務システムが不完全なために遅延やミスが発生していて、そのリカバリー作業でキャパシティーオーバーに。30代は、緊張状態で仕事に追われる日々が続いた。

「そのとき、前の人事部でお世話になった課長が心配してくださって『いくら1人で頑張っても限界がある。組織の力をいかに引き出すか、その環境を考えることが管理職の仕事だ。そのための時間を取っていないのはダメだ』と言われたんです」

LIFE CHART