大失敗から得た「広報のモットー」
しかし結果的に、あれは浅はかな行動だったと反省することになります。1年後に帰国した時、リスクなく働けるようにしたはずの女性グループはなくなっていました。私の赴任後に起こった問題に対しては、誰も対処する力を持っていなかったのです。先回りして苦労を取り除いたせいで、部下が自ら成長する機会を奪ってしまった──。リーダーとして痛恨の失敗でした。
帰国後は営業開発部に所属し、地域活性化のための誘致活動や大型イベントのプロデュースなどに取り組みました。この時期は仕事に対して自信を持ち始めた頃で、上司に面と向かって反論したり意見したりしたことも。生意気だったかもしれませんが、上司としてのあるべき姿について考える機会になったと思います。
そして1997年、広報室に異動。ここから15年ほどは広報一筋のキャリアを歩みました。この時期、私が役割として心がけていたのは、売上につながる「営業広報」と、リスクに対して誠実に対応する「リスク広報」の2つです。時間を割く割合から言えば「営業8:リスク2」でしたが、心を砕く割合はその逆の「リスク8:営業2」でした。
これは、事件勃発時のマスコミ対応で大失敗した経験から学んだことでもあります。詳しくは「仕事で最悪の失態からどう上昇気流に乗れたか」の記事をお読みいただきたいのですが、私はこの失敗のおかげで、会社にとっての危機管理広報がどれだけ重要か、痛感することになりました。
「逃げるな、隠すな、嘘つくな」。私の広報としてのモットーは、この時期にできあがったものです。その後、広報課長、室長と昇格していきましたが、常にこのモットーを意識して取材対応を行っていました。部下に指導する際には、記者の方の後ろにいる社会、そしてお客様を意識した対応を指導していました。
そして2004年、40歳の時に次の転機がありました。長女の出産です。産休・育休に入る前は、制度や周囲のサポートを駆使すれば出産前と同じように働けると思っていました。ところが大きな誤算があったのです。それは子供がこんなにかわいいと知らなかったこと。
実際に生まれてみたら、まぁかわいいこと(笑)びっくりしました。できるだけ長く一緒にいたくて、復帰後は少しでも早く帰宅しようと、3倍速で仕事するようになりました。優先順位付けと取捨選択のプロフェッショナルですね。生産性は確実に上がったと思います。キャリアはその後もCSR推進部長、教育旅行神戸支店長とステップアップしていき、2018年には執行役員就任、東京赴任という話が持ち上がりました。
この時は大いに悩みました。当時、娘は中学1年生。これから最も多感な時期になるのに、母親が単身赴任していいものかと考えましたが、広報のモットーに基づいて、正直に娘に相談したのです。すると、しばらく考えた後「私に相談するってことは行きたいんでしょ」と鋭い一言が。