解釈の枠組み、ナラティヴ

いくつか例を挙げてみましょう。上司と部下の関係では、上司は部下を指導し、評価することが求められる中で、部下にも従順さを求めるナラティヴの中で生きていることが多いでしょう。

また部下は部下で、上司にリーダーシップや責任を求め、その解釈に沿わない言動をすると腹を立てたりします。つまり互いに「上司たるもの/部下であるならば、こういう存在であるはず」という暗黙的な解釈の枠組みをもっているはずです。

つまり、ナラティヴとは、視点の違いにとどまらず、その人たちが置かれている環境における「一般常識」のようなものなのです。

こちら側のナラティヴに立って相手を見ていると、相手が間違って見えることがあると思います。しかし、相手のナラティヴからすれば、こちらが間違って見えている、ということもありえるのです。こちらのナラティヴとあちらのナラティヴに溝があることを見つけて、言わば「溝に橋を架けていくこと」が対話なのです。

そもそも人が育つとはどういうことか

ここでぜひ考えてみたいのは、そもそも人が育つとはどういうことかということです。

仕事に対して必要な能力がその人の中に形成されることを人が育つと理解している人は多いと思います。だから、その仕事と能力の差を埋めることが、育成であるという考え方で、一般的には研修が行われたりしています。確かにそれも大切なことでしょう。しかし、私は、人が育つというのは、その人が携わる仕事において主人公になることだと考えます。先に述べた仕事で必要な能力がその人の中に形成される、ということについてもう一歩踏み込んで考えてみると、それは、当該の人ではなく、誰かが決めた仕事全体の中で、部品としてその人が機能するようになることを意味します。しかし仕事の主人公になるとは、その人の仕事の中において、そうした「能力」を生かしていく存在になっていくことであると思います。