誰よりも成果を出していたのに昇進が遅れた理由

昭和四十二(一九六七)年、石原はベビー商品を統括する次長になり、昭和四十五(一九七〇)年には部長になった。もちろん高島屋において、女性初の部長である。同期十二人の中でも最も早い出世だった。「会社が公平に実力を見た結果」と石原は受け止めた。入社した時から、一生懸命働いてきた、男に仕事で劣ると思ったことはなかったと振り返る。仕事はポジションが上に行くほど権限が増え、責任も増す。その分、面白くもなる。商品開発や仕入れもできるようになる。だからこそ、石原は出世したかったという。

石井妙子『日本の天井 時代を変えた「第一号」の女たち』(KADOKAWA)

「次長になるのは、同期の中で一番遅かったの。私は女性差別だと思った。だって私は誰よりも商品を売っていたし、それは数字で証明されていたから。そこで専務のところに乗り込んで、『私を昇進させないのは私が女性だからなのか、それとも私の能力不足なのか』と単刀直入に尋ねた。すると、専務に『君は二回の出産を経験し、それぞれ三カ月ずつ産休を取った。同期より少し後れをとるのは当たり前じゃないか』と諭されたの。確かに、と思った(笑)。

だから、以後は、女性差別だと騒ぐのをやめて、今まで以上に頑張ったし、子どもを産んだ強みを会社に還元したいと考えて実行もした。結果、部長になるのは同期で一番早かったのね。会社は公平だな、と思いました」

「部下の昇進は自分のこと以上に考えた」

管理職になり、部下の指導にいっそう励んだ。様々に工夫した。子どもを持ったことのない販売員が説得力のある商品説明をするためには育児体験が必要だと考えて、石原は愛育病院に一カ月に一度、研修生として部下を派遣することにした。病院で子どものおむつを替えたり、風呂に入れる実習を積ませてもらったのだ。

朝礼では売り上げ目標を数値で言うようなことはせず、自分が感動した本や映画の話をした。とりわけ八割を超える女性販売員に向けて、「女性にこそチャンスがある職場だ」というメッセージを送り続けた。「女に管理職は無理だ」と公然と言われることもあったが、石原は気にしなかった。

「私は部下の昇進は自分のこと以上に考えた。この人は将来、百貨店を背負っていく人だと思ったら、きちんと評価した。私と一緒に仕事していると厳しいけれど勉強になるし、頑張れば評価もされる、そう思われる上司でありたかった。百貨店の社員に必要なのは、センスと決断力。それなのに、男性社員だけにそういうことを求めて、女性社員には少しも求めない。それで男だけを出世させていくわけ。そんなシステムは、もう終わりにしたかった」