愛した記憶は消えない
わたしは自分が愛したことのあるひとには、生きのびていてほしいと願っている。たとえ過去に属するとしても、そのひとの記憶のなかに愛しあった思い出が生きていると思えるからだ。地球上のどこであれ、そのひとが生きているということを知っているだけで、安心した気分になれる。
下り坂もまた、新鮮である
わたしの人生は、下り坂である。人生は死ぬまで成長、生涯現役、というかけ声に、わたしは与しない。そんな強迫に鞭打たれて駆けつづける人生を、自分にも他人にも、強要したくない。老いるという経験は、昨日できたことが今日できなくなり、今日できることが明日できなくなる、という確実な衰えの経験であることは、50歳の坂を越えてみれば、骨身に沁みる。
だが、それにしても、かつて味わったことのないこの変化は、新しい経験には違いない。それなら新鮮な思いでこの経験を味わい、自分の新しい現実をありのままに受けいれたい。
女は世界を救えるか
現実の個人としての女性は、男性と同じく、それ以上偉いわけでも劣っているわけでもない。ただの男が救えなかった世界が、ただの女に救えるはずもない。
「女が世界を救う」という期待と賛美であれ、揶揄と嘲弄であれ、そのいずれの形の性差別にも、私たちは加担する必要がないのである。
女はすでにがんばっている
私は「がんばって」と他人に言うのもイヤだし、他人から言われるのもイヤだ。がんばりたくなんか、ないのだから。それでなくても、女はすでに十分にがんばってきた。がんばって、はじめて解放がえられるとすれば、当然すぎる。今、女たちがのぞんでいるのは、ただの女が、がんばらずに仕事も家庭も子供も手に入れられる、あたりまえの女と男の解放なのである。
社会学者
1948年生まれ。京都大学大学院社会学博士課程修了、コロンビア大学客員教授などを経て、93年東京大学文学部助教授、95年東京大学大学院人文社会系研究科教授。現在、東京大学名誉教授、NPO法人WAN理事長。
撮影=市来 朋久